ロマンサー
なす
もぞもぞと、今晩何度目かの寝がえりの気配を隣に感じた。
夜半から降り始めた雨は弱まることも強まることもなく、二人の住む静かな部屋の窓に雨音を響かせ続けている。自分も先輩もこれぐらいの物音で眠れなくなるような繊細さは持ち合わせていないはずだが、おやすみを言ってタオルケットに潜り込んでからどれほど時間が経っても意識を手放せないでいた。
お腹は空いてないし、遅い時間になってからはスマホもいじってない。悩み事もなくはないけれど、生活に障りが出るほどでもない。
それでもたまに、こういう夜がある。
いい加減うんざりしてきて、暗がりの中ベッドから滑り降りると煙草に火を点けた。大きく息を吸い、細く煙を吐き出す。
「ワード、俺にも」
ぬっ、と突き出された手に吸いかけを持たせると数秒の後に返ってきて、自分もまた煙を肺に入れると突き出された手に返す。そうやって何度かベッドの上と下でオレンジ色の火を行き来させてから、頃合いを見て窓を開けに立った。
「眠れる気がしない」
煙草のにおいを外に逃がしてから湿気が入り込む前に窓を閉める。目を凝らして壁に掛かった時計を見れば、間もなく日が昇り始める時刻になろうとしていた。
「もう無理して寝なくて良いんじゃないですか。どうせ明日休みだし…ああ、もうとっくに今日ですけど」
はあ、と諦めたように先輩が溜息を吐く。
「そこのコンビニにでも散歩に行きますか?」
「雨」
「降ってますよ」
「……服」
「着てください。さすがにパンイチの人と歩くのはちょっと」
コンビニまで少し回り道して歩いているうちに雨は幾らか小降りになってきていた。この調子だとそう経たずに上がりそうだと思いながら、朝食になりそうなものを適当にカゴに放り込む。初めて見かけた、新商品と思われるピンクグレープフルーツ味のアイスキャンディも放り込む。何か言われるかと先輩を見ると、心ここに在らずといった風にぼんやりと外を眺めていた。
そうこうしてコンビニを出た途端、むわりと立ち上る地面からの土や草のようなにおいを感じた。読み通り雨は止んだようだ。
空を見上げる先輩につられて同じ方角を見てみると、薄っすらと明るい。もうすぐ日が昇る。
「ワード悪い、先に戻る」
言うなり走り出した先輩の背が見る見る遠ざかっていった。こういう時は撮りたい被写体があったとかそういうことが多いので、余程でなければ放っておく。昔は何だそれと思うこともあったけれど、今となってはすっかり慣れてしまった。空が青かったり海の水が塩っぱかったりするのと同じように、ただただそういうものだという感覚だ。キリンの首が長いことに怒ったり拗ねたりしても仕方ない。
取り敢えず、一人にされてしまったので遠慮なくアイスキャンディの包装を毟った。そっと前歯で齧るとケミカルな甘さが舌に触れる。売り場のPOPには”甘酸っぱさと苦みが暑い夏にぴったり”と書かれていた。それにしても思っていたよりも随分と甘い。そういえばこれと同じシリーズの梨味を食べた時も、あまりに甘くて持て余した覚えがある。これもせいぜい半分ぐらいしか食べられなさそうだと思いながら家路についた。
朝食の入ったコンビニ袋をぶらぶら振り回しながら部屋に戻ると、ちょうど先輩がカメラと三脚を抱えて出て行くところで、今度は「屋上!」とだけ言い残してばたばたと走り抜けていく。自分も屋上へついて上がると、街並みの向こう、地平線の彼方から、強い光と共にだいだい色の太陽が顔を出し始めていた。
早々に三脚を立てファインダーを覗く先輩の横顔は楽しげで、さっきまで眠れずに鬱々としていたのが嘘のようにいきいきとしている。刻一刻と変わる暗い藍色からのグラデーションを一瞬たりとも撮り逃さないとばかりに何度も繰り返されるシャッター音を聞きながら、やっと半分まで減ったところでやっぱり持て余し始めたアイスを溶けるに任せてぼたぼたと垂れていくのを眺めていた。
「なあ、アイス」
「何?」
「いつの間に買ってたんだよ」
「あんたが俺から目を離した隙に」
「……雨上がりはさ、空気がきれいだから空がクリアに撮れるんだ」
「そう」
「ひとりで置いてって悪かった」
「……うん」
「それもう食わないならくれ」
「いいよ」
この時間から晴れたら今日はカラッとした陽気になるだろうから、重点的に洗濯をやっつけてやろうと算段した。