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変わるものと、変わらないもの

こめっこ

 夕立には雷もつきもの。この二つが合わさると「神立(かんだち)」と呼ばれます。もともと神が現れて力を示すことなどを意味していた神立が、雷や雷鳴を指す言葉となり、雷を伴った夕立のことまでこう言うようになった、とされています。(引用:ことばの広場)


 

 

 ワードと喧嘩した。

 

 きっかけは大したことでもなかったように思う。しかしお互いに疲れていて、最近はそれなりにすれ違いも増えていて、それで、…それで。ただ積もり積もっていただけで、内容がそれほど重要なことだったわけでもない。冷静になって話せばきっとすぐに仲直りできる類のもののはずだ。

 しかしお互いがお互いに冷静になれなくて、どうしようもなくなって俺が2人の家を飛び出した。

夜までには戻る。俺の頭が冷えたら、ワードが冷静さを取り戻すくらいには。

家を飛び出した俺を包み込む空気は重く、じっとりと纏わりついてきていた。

 

 財布と携帯をポケットの中で握り締め、あてもなくぶらぶらと歩く。灰色の空を見上げながら今までの俺たちのことを思い返していた。たしか付き合った日もこんなに重い雲が空を包んでいたように思う。…いや、結ばれたのは大雨の中だったか。

 

 俺とワードが付き合うようになったのは俺が大学4年で、ワードが大学2年。確か雨季の終わりごろだった。スコールに遭って、それでも2人とも雨宿りをする気なんてなくて、お互いの気持ちを伝えあって、抱き合って。結ばれたというならあの時だろう。

 一緒に住むようになったのはお互いに大学を卒業して、暫くしてからだった。

 ワードはそこそこの企業に就職が決まり、俺はやれニートだなんだとからかわれていたがカメラマンとして不定期ながらも仕事をもらい、食っていける程度には稼げるようになっていたからそのタイミングで。彼奴は家の事情で大学生活に1年のブランクがあったが、それはまったくもって就活に影響しなかったようだ。だとしたらなんで俺は就職先が決まらなかったんだろうな。今となっては気にすることでもないが。

 日々、慣れない仕事や合わない生活リズム、日常のちょっとした違いなどもちょっとずつ慣れながら、時にはぶつかることもあったけれど、なによりワードと2人で生きているという幸せを噛み締めながら過ごしてきた。

 

 付き合っている年月を考えれば、____________もうすでに5年ほども経過しているのか。

 この5年、2人で様々なことを経験した。長い時間だ。お互い、付き合い始めた頃とは全然違う場所にいる。全然この違う場所まで、2人で一緒に歩んできたのだ。

 俺のワードへの想いは変わることなく、むしろその愛の重さは日々増している。生涯をかけて彼奴を愛し、彼奴を守る。そんな覚悟を日々新たにするほどに俺は彼奴を愛している。…こんなこと言ったら彼奴は怒ってしまうから言えないけれど。彼奴の少し凶暴な照れ隠しは普通に痛い。

 

 しかしワードの気持ちはいつも不透明だ。

 

 最近は特にイライラしているようで、昔のような優しさは無くなってしまった。彼奴が俺に向ける愛も薄れてきた…ような気がする。

実際のところはわからないのだ。最近といっても俺も仕事が立て込んでいて、彼奴との恋人らしい営みも、日々の生活すらも疎かになっているから。俺の感覚が鈍っているかもしれないし、あるいは本当に愛が薄れているのかもしれないし。

 

 もし、俺から離れると言い出したら。…別れると言われたら。

 

 絶対にそんなことは認めたくない。何が何でも、あの手を離したくはない。気持ちがなくなったから別れてほしい、どうしても俺のことが嫌になったから別れてほしい。そんな不明瞭なことを彼奴は言わないだろうが。

 

 でもワードが望むというのなら、そこに確かな理由があるとすれば、俺はそのとき本当にあの手を離さずにいられるのだろうか。

 

 「…あぁ、考えすぎだ。やめやめ。」

 見上げた黒い雲から目を逸らし、頭を掻いた。

 ただ、ちょっと喧嘩して俺が小さな家出をしているだけだ。別れだなんて考える必要はまったくないのに、気持ちが後ろを向いているせいで変なことにまで考えが及んでしまう。

 ひたすらに足を進めていると家からは少し遠のいた場所にあるマーケットにたどり着いていて、時間のせいか天気のせいか店じまいをしている店ばかりだった。

 そうだ、ここ。彼奴と初めてのデート、らしきものをした場所だ。

 彼奴と出かけるのにデートという言葉を使うのは気恥ずかしくて気が引ける。実際言葉にするならデートのはずだが、俺たちにデートだなんて言葉が似合わなさ過ぎて。

 付き合い始めの初々しさを残しながら俺の隣を歩いたワードの面影を探しながら、人もまばらになったマーケットの中に入っていく。さすがに店はほとんど変わっているようだったが、道の形は変わらないものだ。あそこの店で昼飯を食べた、あのベンチで写真を撮った、ここのトロピカルジュースは美味しかった。そんななんでもないことを一つ一つ、思い出す。

 

 この道で俺に向かって振り返るワードの横顔を見て、こいつほど美しいものはないと改めて痛感したものだ。

 …彼奴はまだ、あの時のように俺に笑いかけてくれるだろうか。

 

 黒い雲からは大きな雨粒が落ちてきていた。


 

 先輩と喧嘩した。

 きっかけは些細なこと。…いや、今回は俺が悪い。

 2人ともが忙しすぎて、生活がすれ違って、家も荒れて、顔を合わせる暇もほとんどなくて。そんな日々が漸く一段落したから荒れた家を片すところから始めようと思った。先輩も疲れているのにそれに付き合ってくれていた。

 ただ最近顔を合わせていなかった分どことなく気まずくて。お互い言葉の端々に棘があり、ほんの些細な先輩の発言が頭にきて、怒鳴り散らしてしまった。今思えば先輩がなんて言ったかも思い出せないほどにどうでもいいことだったはずなのに。

 先輩は俺が怒鳴ったから言い返して、その分喧嘩は無駄にヒートアップして。その結果先輩は財布とスマホだけを掴んで外へ飛び出してしまった。

 

 完全に俺が悪い。

 

 どんなに思い返してもそうとしか思えないほどに俺が悪かった。

 もうすっかり俺は冷静さを取り戻しているけれど、電話をかけて謝れるほど俺は素直で可愛げのある人間ではない。それに先輩はまだ頭が冷えていないだろう。きっと先輩の気持ちが落ち着いたらすぐにでも家に帰ってくる、はず。帰ってこないかもしれないという不安からは目を背けた。大丈夫、今まではちゃんと帰ってきてくれていたし。

 

 今日は朝から分厚い雲が居座っていて、太陽と顔を合わせてすらいない。先輩が家を出た時点ですぐにでもスコールが降りそうな真っ黒い雲が空を這っていた。

 

 …雨が降る前に、貴方が帰ってきますように。

 

 そう心の中で祈りながら一人で部屋の掃除を再開した。

 

 雨粒をひとつ、額で数えてからはあっという間に世界は雨一色になった。

 慌ててシャッターの下りた近くの店先に体を忍ばせ、スコールが通り過ぎるのを待つ。

 

 空を見上げながら、彼奴の体温を思い出す。このマーケットで雨に降られた日の、彼奴の。

 

 そう、あの初…デートの日、だ。

 あの日は俺たちにとって、俺たちの関係性にとってとても大切な日になった。きっとあの日にあんなことがなければ、俺達はもっとすれ違って、こんなところまで一緒に歩いて来れなかっただろう。

 

 今と同じく、夕方と夜の境に雨が降り出した。この季節にはよくあることだ。少し待てば雨が止むのがわかっていたが、その時俺が住んでいた家が近いからと2人で濡れながら走った。

 家に着く頃にはすっかりびしょびしょで、互いに変な髪型だなんだと笑い合ってかわりばんこにシャワーを浴びた。彼奴が先で、俺が後。

運の悪いことに俺がシャワーを浴びきらぬ内に近くに雷が落ちたようで、轟音と共に俺は素っ裸で暗闇に放り出された。停電だ。慌てて下にだけ布をまとってリビングへ行くと、ワードの姿がなかった。

 「おいワード、どこにいる?停電みたいだからあんま動くなよ」

 外が暗いから部屋の中に入る光は全然なくて、ついでに彼奴の気配も消えて。ただひたすらに、俺は不安だった。彼奴が帰ってしまったと思ったから。こんな雨の中帰らなければならないほどに嫌なことを俺はしてしまったんじゃないかって。

 スマホをどこに置いたかと手探りで部屋をさ迷っているとまた空に閃光が走る。

 

 その一瞬の光でやっとワードを見つけた。…目も耳も塞いで、縮こまるワードを。

 

 「おいワード、大丈夫…ッ」

 まるで遮られたかのように鳴り響く轟音にビクビクと体を震わせていっそう小さくなる彼奴を見て、不謹慎にも可愛らしいも思ってしまった。…趣味が悪い。

 ただ、本人に聞く前にさすがにわかってしまった。きっと雷が苦手なのだ、この素直じゃない可愛い後輩は、それを口には出さないのだろう。

 俺はすぐベッドにおざなりにされていた毛布を手に取り、彼奴を包み込んだ。そして抱きしめるかのように手を回して、背中をぽんぽんと叩く。

 「大丈夫、きっとすぐ通り過ぎる。近いうちに電気も復旧するから。…俺はずっとここにいるから。」

 安心してほしくて、そんな言葉を繰り返し繰り返しかけた。俺の毛布を握りしめて消え入るような嗚咽をわずかに漏らしながら、それでも健気に頷いてくれるワードに庇護欲が沸いた。まさかこんな一面があると思わなくて、そんな彼奴がどうしようもなく可愛くて。

 

 あの後電気が復旧し、落ち着いたワードから昔から雷が苦手だということ、その中でも暗闇の中で雷が鳴り響く状況が耐え難いものだと聞いた。

 俺はそんなお前をずっと、一生でも雷から守るだなんて子供みたいなことを勢いで言ってしまった。今でなら馬鹿みたいで、ガキくさいと思えるがあの時は少なくとも本心だった。

 彼奴はそんな俺の必死の発言を笑いながら、涙の筋を残したまま、見たことがないような最高の笑顔でお願いしますだなんていうもんだから、あの時俺はまた彼奴に惚れ直したんだ。



 

 「なつかしーなァ…」

 

 あの雷は、お互いのことをもっとよく知れという荒療治な神の仕業じゃないかと俺は密かに思っている。まあ、こんなこと言ったら哀れな目を向けられそうだから彼奴にも、友人達にも言わないけれど。

 実際あの日の雷でワードのことをもっとよく知ることができたし、その分俺のことも話すきっかけになったのだ。あの日があったから、今の俺たちがある。

 

 あの後も何度か雷が鳴れば小さくなるワードをあの時の毛布で包んで安心させてやっていたが、そう何度も停電が起きるような雷はやって来るものでもない。それに彼奴も俺の毛布が安心するとかで俺の毛布さえあればただの雷では比較的落ち着いていられるようになった。あの日以来暗闇の中で雷が鳴り響くなんてことにならなかったので、停電や夜中の雷であればまたあんなことになるのかもしれないけれど。

 守ってやりたい俺の気持ちと裏腹に一人で耐えられるよう成長…いや、変化していく彼奴に残念な思いはあったがそれでもそれが彼奴にとっていいことであるならと俺も一緒に喜んだものだ。

 

 ぼんやり、そんなあの日から今日までの俺たちを振り返る。どうしたって社会人になってからは一緒に過ごす時間が減ってしまったけれど、それでも俺たちに愛はある、はずだ。

 

 ワードに逢いたい。

 

 喧嘩したことを謝って、あと数日残る2人の連休を楽しもう。

 

 そう思えばさっさと家に帰ってしまいたいのに、雨足は弱まる気配などなくむしろその強さを増しているようだった。くそ、タイミングの悪い。

 もうすっかりあたりは夜の暗さに包まれていて、雨が止んだらすぐに帰れるように家までの道をスマホで確認していると空がゴロゴロと唸りだした。これはもしやと思いもう一度空を見上げたところで空に閃光が走る。

 あ、と声に出るより前にすさまじい轟音が鳴り響く。すぐ近くに落ちた。

 そのあとも立て続けに2回目、3回目と回数は増えていく。

 彼奴は、ワードは大丈夫だろうか。

 外が暗いとはいえさすがに家の中に電気は付けているだろうし、そこまで心配することはないのかもしれない。メッセージでも送るかとまたスマホに目を向けた時、1回目のような激しい雷がすぐそばに落ちた。

 その直後、俺のいる軒下を照らしていた光が無くなった。

 それだけではない。マーケットの中でついていた明りがすべて消え、真っ暗な闇に放り出された。

 

 メッセージを送ろうとしていた画面からニュース速報を見ると、停電の対象地域に俺達の家が入っていることを確認できた。

 

 ワード。

 俺は、お前を一生、ずっと、お前の恐怖から守ると誓ったんだ。

 

 早く帰らねば。

 

 小さく震える彼奴の姿を想像して、一人雨の降りしきる暗闇へと駆け出した。



 

 

 家の掃除が粗方終わり、不意にベランダの外に目をやるとスコールが降り出していた。

 干しっぱなしにしていた洗濯物を取り込みながら先輩のことを考える。流石にこの雨の中走ってまで帰ってくるほど馬鹿な人じゃないから、きっと帰るのはこれが過ぎてからなのだろう。まだ暫くはこの部屋に一人でいなければならないということに落胆した。

 窓を閉め、テーブルに頬杖をつきながらだんだん強くなる雨を眺める。

 俺達が気持ちをぶつけ合った日のことを思い出す。雨が降っても、どれだけびしょ濡れになっても、お互い目を逸らさなかった。俺も逃げたくなかったし、俺から逃げない先輩が愛しくてとても逃げられなかった。

 

 あの時、2人とも若かった。まだまだ青臭さを持つ、青春という瑞々しい若さで溢れていた。

 

 俺達には似合わないけど、そんな青春の瑞々しさのおかげでお互いを知り、今こうして2人の人生を歩むことができている。若さも悪いものではないなと今でなら思える。そんないい思い出だ。

 

 付き合うときも、付き合って暫くも、雨季のせいではあるのだがどうしても雨が多かった。雨は俺達の関係に欠かせないものであると言える程度には、2人の交際は雨とともにあった。

 

 ザーッと鳴り響く雨の音に耳を傾けながら、俺達のこれまでをゆっくり振り返っていた。

 あの雨の日からは随分遠いところまで来ているだろう。あの日からずっと、先輩の隣で人生を歩めていることが嬉しくて、これほどにない幸せだ。

 こんなに遠く、離れた場所まで来たというのに、長い時間を共に過ごし、そろそろ飽きられても仕方がないという思うほどなのに、先輩が俺に向ける熱は冷めることを知らない。むしろその愛はどんどんと重いものになっているのではないかと感じる瞬間さえある。そして俺も、先輩へ向ける愛はだんだんと大きくなっているのだ。きっとあの人よりも深く、重い。

 俺は、素直になれないこの性格のせいであの人に心配をかけることが多々あるのだろう。それでもすべてを汲み取って、わかってるからと頭を撫でてくれるあの手の優しさにいつまでも甘えている。ずるい、俺は本当にずるいだけの男だ。

 いつ愛想をつかされても仕方がないと腹は括っているのに、俺に向けられる熱情を感じる程にそんな日は来ないのだろうと思わせられる。そしてそんな日が来なければいいのにという思いだけが募っていく。

 俺から離れてやるつもりも、あの人を離してやる気もさらさらないのだから、そもそもが杞憂ではあるのだが。

 

 目を閉じてそんなことを考えていると、バリバリバリッと轟音が響き、はっと目を見開く。

 

 雷だ。

 

 外へもう一度目を向けると、次は鮮明に空から走る閃光を目に焼き留めた。

 その光とともに轟音が響き渡る。おれの大嫌いな音だ。

 閃光からも轟音からも逃れるように背を向け、ベッドから毛布を拝借してまたテーブルにつく。頭からすっぽり、先輩の匂いに包まれながら。

 

 こんなに大きな図体を持った男が何を言っているんだという話だが、俺は雷が苦手だ。……いや、正確には「だった」か。

 明確なトラウマがあるわけではない。 ただ前振りもなく唐突にやってくるあの閃光が、轟音が、俺の不安を煽る。

 特に暗闇で雷に襲われるのが一番いただけない。……もう今は、どんな状況であれ慣れてはいるのだが。

 この事実は恥ずかしさからわざわざ人に話すことはなかった。大学に入学したとき既に夕方に遠くで鳴り響く程度の雷には慣れていたので取り乱すことはなかったし、俺に恐怖を与えるような雷が襲ってくることもほぼなかった。あったとしても、その場に俺はただ一人で存在していたから何を恐れることもなかった。

 

 ただ、たまたま。

 偶然にしては最悪なタイミングで先輩にこの事実がバレてしまった。あの初デートの日。

 始めて入った先輩の部屋に浮かれているとき、唐突に。

 暗闇の中で鳴り続ける雷から逃れたくて、先輩の家だということも忘れて取り乱してしまった。本当に人生で経験したこともないくらいに近くに落ちた恐怖で、とても理性なんて保っていられなかった。

 そんなみっともない俺の姿にも何も言わず、ただこの毛布で包み込んでくれた先輩の暖かさが忘れられない。

 「俺はずっとここにいるから」

 ………その言葉で、涙があふれた。

 何がそんなに俺を安心させたのか、今でもわからない。ただあの言葉に、俺を包み込む先輩のにおいに、「もう大丈夫なんだ」って思えた。

 あの後に俺を一生雷から守るだなんて大真面目な顔で言った先輩が子供臭くて、どうにも面白くてすごく笑った記憶がある。

 でもそんなまっすぐに俺を守ると言った先輩が頼もしかったから、俺もお願いしますだなんて言ってしまったんだっけ。

 

 「なっつかしいな…」

 

 空に描かれるいくつもの線をただ眺める。音が鳴るまでを数えてどのくらいの距離があるのかを計算できるほどに俺は冷静である。

 俺ももういい年だ。仕事中に雷が鳴り響くなんてこともよくある。もう俺は取り乱したりなんかしない。

 ただシンプルに慣れたということでもある。が、あの日俺を守るといった先輩の言葉で、雷への恐怖が薄れているというのは明確な事実でもある。

 特に今は、あの時と同じ、先輩の匂いに包まれているから。今の俺に怖いものなどないのだ。

 

 ちょうど5本目の雷の距離を計算し終えた時に一際明るく、また一際大きな音が、その刺激が同時に俺を刺す。

 ゼロ距離だ。ただ音の大きさに肩が震えた。

 

 次の瞬間、視界は暗闇に包まれていた。…あぁ、停電か。

 キャンドルでもつけて回ろうかとも思ったが、この暗闇で雷を眺めるのは案外悪いものでもなくて、そしてあの日に戻ったような気がして、何もせずに外を見つめていた。

 なんだ俺、暗闇の中でもちゃんと耐えられるじゃん。

 でもきっとそれは俺だけの力じゃない。この毛布が、俺を包み込んでくれるあの人が、俺の恐怖をやわらげてくれている。

 手元の携帯はびくともしてはくれないけれど。

 あぁ、早く帰ってきてよ先輩。

 別にもう怒ってないから、もう雷から守ってくれなくてもいいからさ。

 ただそばにいて、安心させてよ。

 

 「…早く逢いたいよ、先輩。」

 

 そう呟いた瞬間、バンっとドアを乱暴に開ける音がした。



 

 

 この恐怖から彼奴を守らないとという一心で駆け出して、走って走って、うろ覚えの道で時々迷いながら、それでも必死に家まで足を進めた。

 雷は鳴りやまないし、雨足だってむしろ強まっている。全力疾走をするには年を取りすぎた体は一歩踏み出すたびに悲鳴を上げる。

 それでも俺は帰らなければならなかった。小さくなって怯えるワードが、俺を呼んでいたから。

 

 漸く着いた見慣れた玄関を荒々しく開けて、息が切れているのも全身がびしょ濡れなのも厭わずリビングへ向かった。暗闇で蹲るワードを探して。

 けどそこにあったのは俺が想像してた光景じゃなかった。

 

 「あ、おかえり、先輩」

 もう頭冷えたの?ていうかなんでびしょ濡れなの、と何でもないように話すワードが、そこにいた。ごく落ち着いた様子で、明りもつけずにいつものテーブルに座るワードがそこに。

 

 だって、お前、こんな日は俺がいないとダメなんじゃないのか。

 「なんで…」

 「…?なんでって、なにが。先シャワー浴びちゃってよ。風邪ひくよ」

 あぁ、まだ電気つかないから危ないか。なんて言って頭からふわふわのタオルを被せられてわしゃわしゃと書き混ぜられる。

 その姿はまるでいつもと変わらない。もう怒ってはいないみたいだけど。

 

 その細い手首を掴んで引き寄せる。ばさっと、何かが落ちる音がした。俺のタオルは頭に被せられたままだ。

 「なんで、大丈夫なんだよ、俺がいなかったのに」

 だって、俺がいなくても平気ってことは。もう、雷なんて全然怖くないってことは。

 

 「もう俺は、お前にとって必要ないのか…?」

 

 それを聞くと、ワードは目を見開いてきょとんとした珍しい表情を見せた。

 そのあとに心から可笑しそうに、楽しそうに、くすくすと声を出して笑った。そして床に落ちた何かを拾い上げて、俺がタオルを被せられているのを真似するみたいに自分の頭に被せた。

 

 「ねえ先輩、まさかそれだけを考えて、こんなにびしょ濡れになって帰ってきたの?」

 ひとしきり笑った後に、覗き込むようにしてそう聞かれる。

 「あ、あぁ。だって、暗いところの雷は、お前は苦手だから。」

 こんなに真剣に話しているのに、ワードがどこか嬉しそうに笑うものだから、拍子抜けしてしまう。

 「あぁ、そうなんだ、……先輩。」

 最後に何かを呟いているようだったが俺の耳には届かなかった。

 「悪い、聞こえなかった。もう一度言ってくれ。」

 「いや、独り言だから。……でも先輩ほんとに俺のこと大好きなんだね。こんなにびしょ濡れで、息が切れるまで走るなんて。」

 「だってそれは、…だから、雷が。一生守るって俺は何回も誓ったんだよ、だから。」

 俺の言葉を遮って、ワードは宙ぶらりんになっていた俺の右手を取り自分の頭に被せたものを握らせる。

 「ねえ、これなにかわかる?」

 これはあの毛布だ。もうすっかりくたびれて、ゴワゴワと肌触りの悪い、俺の毛布。

 「俺の毛布……?」

 「うん、当たり。…先輩、守ってくれてたよ。今までも、今日も。」

 決して目は合わさずに、でも握った俺の右手は離さずに、ワードは静かに語る。

 「俺は別に雷が大丈夫になったわけじゃない。ただ、大丈夫なふりをするのが上手になって、慣れただけ。…暗闇でだったら、まだ苦手だよ。」

 ぎゅ、とさらに力を込められたその手を撫ぜて、力を抜いてやりたい。

 「でもこの毛布は、先輩は、雷から俺を守ってくれる。それはあの時から何も変わらないし、これからもずっと変わらない。…毛布より、先輩がいてくれるほうがよっぽど安心するし。」

 だから、と言葉を紡ぐワードの頭を抱き寄せて、俺の胸にしまい込んだ。

 「だったら俺はずっと、これからもお前を守っていいってことだよな?」

 「…っ、うん、そう、言うこと。先輩がいなかったら、俺はまだ耐えられないから。…「ずっと、」

 

 「『ずっとお前を、一生でも雷から守る。』」

 

 彼奴の言葉を遮って、あの時と同じ至極真剣な声で、表情で、大真面目に伝えてやる。おかしいよな、ついさっきまでガキ臭いだなんて心の中で笑っていたのに。

 でも、お前が求めてたのはこれだろ?

 

 「あぁ、先輩、『お願いします』」

 

 そう言うワードもあの時と同じ最高の笑顔で、あの時と同じ言葉を告げる。あの時と違うのは俺が服を着て全身びしょ濡れということと、ワードの頬には涙の筋なんかないことだ。

 そしてその笑顔はやはり、俺が見てきた何よりも美しい。

 

 ようやっと目が合った俺達はなんか面白くなって、2人して暗闇の中で笑い合った。

 外ではまだ、雨が地面に叩きつける音が煩く響く。

 でも雷はすっかり止んでいた。


 

 

 まさかあんなに全身濡れ鼠になって、息を切らしてまで帰ってくると思わなかった。

 その顔は必死だったはずなのに、俺の姿を目に留めるとあんぐりと口を開けて間抜けな顔をした。思っていたより俺がビビってなかったんだよな。わかる。

 でもまさかその光景を見て「もう自分のことは必要ないのか」だなんて、驚くだろう。一周回って面白くなってきた。

 別に俺、雷のためだけに先輩と居るわけじゃないのに。

 あぁでも、「……そうなんだ。そんなに俺のこと愛してくれてるんだ、先輩。」

 こんな雨の中、雷だってまだずっと鳴ってて危ないはずなのに、俺を安心させるためだけに走ってくれただなんて。

 そんな先輩にはちゃんと答えてあげないと。…滅多に言葉になんてしないけど、今日は特別だ。

 あの日のセリフ、先輩も覚えててくれたんだ。

 しかもあの日と全く、いや実際にはちょっと老けた顔ではあるけど、大真面目な顔であの日を再現する先輩。

 どうしても笑いが我慢できなくて、また笑いながら答えてしまったけど、それもきっとあの日と同じなのだ。

 2人顔を合わせて暗闇の中で笑い合う。

 

 これこそが幸せというものだろう。


 

 「てか先輩、俺のこと雷からしか守ってくれないの?」

 「あ?そんなわけないだろ、もちろんなにからだって守ってやるよ!」

 「…ふーん、まあ自分の身くらい自分で守れるけど。子供扱いしないでくれる?」

 「お前……ほんと、素直じゃねえなあ…はいはい、子供扱いなんてしてませんよーだ。」

 へーへーとめんどくさそうに流す先輩。日常が帰ってきた。

 そう思った瞬間に部屋中に光が溢れる。予想していたよりも随分と早い電気の復旧だ。明るいところで見る先輩はどこをどう走ったらそうなるのか、部屋に足跡を残すほどには泥まみれで、せっかく掃除した部屋が台無しになっていた。

 「……先輩、とりあえずシャワー浴びて。汚い。」

 「お前、普通にひどくね?…ってあぁ!こんなに汚れてたのか? 悪い、後で掃除するから!」

 ばたばたとシャワーに吸い込まれる先輩を見送り、床に残る泥を丁寧に落としていった。

 

 仕方のない人だ、本当に。

 

 掃除しなければならないというのに俺の頬は緩んでいた。

 


 

 シャワーから上げれば部屋はすっかりきれいになっていたし、テーブルには温かい晩飯が並んでいたりで至れり尽くせりだった。

 出来上がったばかりの飯を食べながらワードとゆっくり話をする。もうしばらくこんな時間なんてなかった。すれ違う生活にピリオドを打ったかのようなこの時間を、久しぶりの幸せな食卓をしっかりと噛み締めた。

 

 俺達が出会い、付き合ってからなんて随分遠い場所に来て当然なのだ。むしろ遠いと感じる場所まで来れたことを誇りに思える。それほどの時間を共有し、過ごしてきたということだから。

 離れたと思ってもそう簡単に俺達は離れない。

 何かが変化することは当然で、俺はこれからも、2人がどう変化しようと変わらずに此奴を愛し続けるのだろう。

 

 そんなことをまた、荒療治な神の雷に教えられたような気がする。

 

 「雷の神様、なあ…」

 「なにメルヘンなこと言ってんの」

 

 うげ、と顔をしかめながらワードがつっこんでくる。やべ、声に漏れてしまっていた。もう予想通り過ぎるくらい予想通りの反応。

 …あぁいや、でももういいか。

 

 「メルヘンか? でも確実に、俺達は雷のお陰でこんなに近くなったというか、お互いについてよく知っただろ? あんなことがなければ俺はこんなに続かなかったと思う。 だから今までの雷は荒療治な神の仕業じゃねえかなって思っててな。」

 言葉にして説明するとなんだか気恥ずかしい。いや、やはり言わないほうがよかったか。

 「俺は雷より雨のほうが近くにあったような気がするけど。 ……あー、いや、どっかの国であった気がする。 そういう、なんか言葉?概念?」

 雨か。確かに俺達が気持ちを伝えあったのは雨だったからな。確かにそれも一理ある。

 「概念? なんだそりゃ」

 「なんだっけ…確か、夕立に鳴る雷は神のお告げ、みたいなの。 大分前に本かなんかで読んだことある。 ……そう考えれば確かに神のお告げかもね。」

 しんみり、そんな風にワードが呟く。神のお告げ。すごくしっくりくる。

 「へえ、そんな言葉があるのか。 やっぱりそういう神っているんだな。」

 「次夕立に鳴る雷は何をお告げしてくれるんだろうね。 …先輩の浮気とか?」

 くすくす笑いながら趣味の悪いことを言う。そんな未来来るわけないだろ。

 「変なこと言ってんなよ、そんなこと絶対あり得ないからな。」

 ふ、と笑ってこちらを見つめる。意味深な視線だ。

 「冗談。先輩はそんなことしないんでしょ。 …まあ、雷なんかに頼らなくてもちゃんと話すでしょ、もうこれからは。」

 

 確かにそれもそうだ。

 これからの長い人生、そう何度も雷に頼るわけにはいかない。

 

 次雷が鳴る時、それは俺達に何を告げる時だろうか。

 それが何であっても、俺は、俺達は、お互いの隣にいることをやめはしない。永遠にそばにいるから。


 

 雨が通り過ぎた空に、一番星だけが煌めいていた。

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