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雷と雨

​蜜豆

 静まりかえった図書館の中にいると外の雨音が、いやに大きく感じる。

 さっきまで晴れ渡ってた空は、今は土砂降りの雨で泣いている。閉じている図書館の窓に打ち付ける雨の音が、その強さを物語っていた。閉じ切って室温を一定に保たれているはずのこの場所も湿度が一気に上がって、むっとした空気に変わったように感じる。

 今日の授業はもう随分前に終わった。残っている課題を寮でやるよりは学内でやったほうが早く終わりそうだと1人図書館に来た。大学生になると同時に出される課題の量に驚いたのも懐かしい。大学2年になり出される課題の多さにも慣れてきていた。息抜きをするタイミングもなんとなく分かってきた。課題はさっさと終わらせて、今日は家では少しゆっくりしたいな、なんて思っていたけど、この雨では後1〜2時間は帰れないな。その分、他の課題も終わらせてしまえば良いのか。

 しかし、先に帰った友人たちは雨に濡れる前に寮に到着しただろうか。

 ぼんやりとそんなことが頭を掠めた。

「ワード」

 人が多くはない図書館だったが、雨が降り始めてから少しずつその密度は増していた。雨で帰宅できなくなった学生たちが一時避難先としてこの場所を選択したのだろう。窓際の4人掛けのテーブルを占領し課題に必要な文献を広げまくっているここから1人掛けのテーブルにそろそろ移動しようかと思っていた。

「プレーム先輩、こんにちは」

 大学4年生になった先輩たちは、もうほとんど大学構内で見かけることはなく、それぞれ卒論の準備や就職活動、インターンシップなど細かに分かれてしまっていた。久しぶりに見るその先輩は、いつも通りの軽さで、昨日も会ったかのような錯覚を起こすようなさも当たり前のような調子で声をかけて来た。

「勉強か?案外真面目にやるんだな」

「ええ、まあ一応。課題くらいは」

「ここ、良いか?」

 俺の反応を待たずに、真向かいに先輩は座ってしまった。

 人の多くなった図書館は、先ほどよりも人の囁き声や足音、衣擦れの音が響いている。

 図書館という特性上小さな声ではあったが、会話をしていても特別周りも気にしなそうな雰囲気になっていた。

「どうしたんですか?珍しいですね、大学に来てるの」

「ああ、たまたま教授に用事があって来てたんだ。終わった途端、これだもんな」

 外を顎で示す先輩の顔は、もうすでにテーブルとほとんどくっつきそうになっていた。

「災難でしたね」

「全く。今日は彼女と約束してたのに、これじゃあ何時に帰れるか分かんねーし」

 俺もとんだ災難だ。あなたと恋人の予定まで聞かされることになるなんて。

「課題か?分かんないところあるなら見てやろうか?」

「大丈夫ですよ。それに、先輩にわかるんですか?」

「なんだ、バカにしてんのか。俺だって一応4年になれたんだぞ」

 そうですか、とだけ答えると楽しそうに笑う先輩の顔が飛び込んできた。何度も見てきた笑顔だ。1年前には考えられなかった。先輩を、失礼ながら敬える存在だとも思っていなかったその当時には、怒った顔ばかり見ていたのに、今ではこの安心し切ったような表情を見るのが好きだ。

 少しの間とともに、窓の外の止む気配の無い雨に視線をずらした先輩の目が、瞼の下に消えていきそうだった。

「雨が上がるまで、少し寝るわ。いびきかいてたら起こして」

「いいですけど。先輩も努力してくださいね」

「どうやって努力すんだよ」

 楽しそうに目が細められたと思った次の瞬間には、テーブルの上で組まれていた腕の、その中に顔が半分沈んで行ってしまった。

 臙脂色のシャツも、しっかりと固められた髪の毛も、組まれてしまっているその腕も、半分だけ見えているその顔も、大学に来れば高確率で見ることができた。それが今はもうほとんど会うことは叶わない。会いたい、ひと目でも見れたら良い、なんてどんな人に対してだってこれまで考えたこともなかった。

 もう夕方で、しかも外は雨のために薄暗くなっていたが、いつの間にか雷が鳴っていた。その音はまだ遠いはずなのに大きくて、本当に鬼と天使が何かで戦っているんじゃないかと思うくらいだ。時折明るく光るその雷が、先輩の髪の毛一本一本を鮮明に見せた。

 会うだけで、瞳の中にその姿を写すだけで、その日1日が少し楽しく思えた。それが、その気持ちがなんなのかなんて、分かり切っていた。それでも先輩には彼女がいて、楽しそうにその人のことを話す先輩に、こんな気持ちを。醜い気持ちを持っているなんて、知られたくない。

 俺が、ただの先輩後輩以上の気持ちを持ってるって知ったら、どう思いますか?先輩に恋人がいることも先輩と恋人との関係を聞くのも、本当は辛い。耳を塞ぎたくなる。この雷の音で聞こえなくなってしまえば良いのにって思っている。恋人の隣で微笑む先輩を想像するだけで胸が焼け切れて、体がバラバラになってしまうんじゃないかって思ったりする。そんなことを考えている人間に、こんなに気軽に声をかけて、眠った姿を曝け出してはくれないでしょう。

 たまに光る雷の、そのあかりで映し出されるその髪の毛、眉毛、睫毛、耳……それは全て、他の人のもの。もちろん、この形の中にある心なんてものは、見えなくて形さえないくせに、一番大切なそれはもう他の女性のものだ。俺の心は先輩のものなのに。でも、受け取ってはくれないでしょうね、この気持ち。この心を差し出したいくせに、それはできないことも自分自身知っている。伝えてしまったら、それは粉々に砕けるしか道はない。それならばずっと、これを大切に持っておきたいと思ってしまう。こうやって嫉妬したり、楽しくなったり、1人でずっと、踊っていたい。どうせ伝わらない想いなら、俺が1人で大切に、そっと持って、たまに確認して。

「あれ、今日は案外早かったね。雨やんだよ」

 雨宿りに来ていた学生だったんだろう。すぐ近くに座っていた2人組の女の子たちの声が聞こえた。いつの間にか雷の音は消えて、雨の音もなくなっていた。

 早かった。

 もう少し雨が降っていてくれたら、その間だけは先輩は俺のものだったのに。

 雨が止むのを待っていた多くの学生が席を立って図書館を出ていく。

 さっきまでの人はもうほとんどいなくなって、また周りは静かになっていった。周囲の席には人がいない。

 雨の音が響く中でも眠っていた先輩はいまだに寝ている。

 もう少しだけ、この時間が続けば良いのに。

 今なら、普段触れることなど叶わない、先輩が触れられる距離にいる。

 邪な思いは、誰も見ていない今、簡単に自分の行動を制御出来なくさせる。手を伸ばす。友達や先輩後輩という関係では触れられない場所。無防備な形のいい耳に触れてみたいと思っていた。

 欲にまみれたこの感情に素直に体が動いてしまった。

「……っ、て」

 伸ばした指の先、耳と触れ合いそうになるその瞬間、指先に刺激が走った。静電気が、この指先と先輩の柔らかな耳朶の間で弾けて消えた。

 慌てて手を自分の体に戻すと同時に、先輩の眉毛が綺麗に歪んでいく。

「あ……?」

 何かに気がついたかのように、ゆっくりとその瞼が動いて、隠されていた瞳が登場すると同時に、頭が持ち上がってきた。

「なんか、今、あったか?」

 触れようとしていた耳を自身の手で撫でる先輩は、少し犬みたいだった。

「なんかありました?」

 平静を装って返すこの声が裏返っていなかったことにほっとした。

「いや。なんだっけ。夢かな」

 寝起きの先輩は少しぼんやりとしている。こういう姿を見るのも初めてだ。

「お、晴れたな。そろそろ行くわ。席、貸してくれてありがとな」

 雨音がしないことに気がついてしまったのだろう。外を一目見ると、すぐに耳から手を離して席を立つ。こういうとき、先輩は必ず顔を見て目を見て、話してくれる。いつもは嬉しいそれが、今は少しの罪悪感を生む。

「はい。まだ道は濡れてますし、気をつけてくださいね」

「ああ。じゃあな。また」

 また、いつか、偶然、会えますか?

 言えない言葉を飲み込んで、席を立つ先輩を見送る。図書館の出入り口に向かう先輩は、すでに取り出したスマートフォンを操作して耳に当てているところだった。

 触ることも叶わなかった。

 それでも、小さな雷が、俺と先輩の間に、発生したのだけは事実。

 この指先の痺れを俺は、どうしてだろうか、甘い感覚のようにこの先も何度も思い出すような気がした。

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