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Je t'aime, mon amour

ひよこ

 思い返してみれば、俺達の関係が変わるのはいつもスコールの多い雨季だった。

 前触れもなく、突然俺の心を強く揺さぶり離さなくなったあいつは、まるで予測できないスコールのようだった。

 雨季になると、嫌でも俺は思い出す。

 なんの根拠もなく、一緒にいられると思っていた、あの頃のことを。

 

スコール[squall]

 毎秒八メートル以上の風速増加を伴い、最大風速が十一メートル/秒以上で一分以上持続するもの(世界気象機関より)

 強い雨及び雷を伴うことが多い

 

◇◇◇

 

「インスタでね、すごいお洒落なカフェを見つけたの!丁度この辺りにあるから行きましょ!」

 彼女が俺の腕に自身の腕を絡ませて、俺の事を上目遣いで見つめる。

 数時間前突然のスコールに遭い、外を歩いていた俺達は近くのモールへと避難した。そこでも彼女はフードコートで甘い甘いフレーバーティーを飲んでいたのに、よくもまぁカフェに行きたいと言うものだ。腹が飲み物でいっぱいになってしまいそうだ。

 スコールが止んで少し涼しくなった中、できた水溜まりを避けつつ、俺はただ彼女に連れられるまま道を歩く。

すれ違う人達が、ちらちらと彼女の方を見る。

 小柄で色白、ふんわりウェーブがかかった栗色の髪から、ふわりと甘い香りがする。頭の上からつま先まで、可愛い可愛い女の子。

「ねぇ聞いてる?」

「…あ、うん、ごめん、ちょっと考え事してて」

「プレーム、すぐ考え事する」

 ぷく、と彼女は頬を膨らませた。

 女の子だなぁ、と思う。

 俺は笑顔を顔に貼り付けた。

「そのカフェは、何が有名なの?」

「うん、カフェラテがとっても美味しいんだって!でもね、私が気になってるのはクリームがのってるの、ブラウニーも食べたいなぁ、あとね、店長さんがかっこいいイケメン!」

 仮にも彼氏の前でかっこいいなんてよく言うな、と思ったけど、別に傷ついたりしない。

「店長いるといいね」

「でもプレームが一番好きよ」

 そう言って、俺にぎゅ、としがみついた。

 彼女のことは好きだ。可愛いとも思う。でも、強く心が動かされる何が、ない。

「ありがとう、俺もだよ」

 舌に乗せて心のない愛を囁くことは、思いの外簡単なことだ。

 想いが強いほど、簡単に言葉にできないことも、俺は知っている。

「あっ、ここよ!」

 彼女は店を指さした。

 お洒落なカフェと聞いていたからガラス張りの店内を想像していたけれど、そこは外観に木材を多く使っていて、どこか温かみを感じる。木目の綺麗な扉に店名の書かれた札が掛けられていた。

『Cafe ma cachette』

 入口の横には背の高い観葉植物の鉢が置いてある。扉を押せば、カランコロン、と可愛い音が響いた。店内にはイートインスペースもあり、客がちらほらと座っている。

 カウンターの奥で、長髪を束ねた細身の男性がこちらに背を向けて何か作業をしていた。

「すみませ〜ん」

 彼女がカウンターに近づき彼へ声をかける。

「はい、いらっしゃいま…」

 彼は振り向き笑顔で彼女に挨拶し、視線を俺へ移して言葉を失った。俺も彼の顔を見て、思わず固まって目を見開いた。

「…、ワ、ワード…」

「……プレーム、せんぱい……」

 別れて何年も会っていなかった、かつての恋人がそこにいた。

「え、プレーム、店長さんのこと知ってるの?」

 彼女の声で、現実に戻される。

 店長?と思ってワードが着ている黒いエプロンの胸元を見れば、確かにshop managerというネームプレートが付いていた。

「…えっと…」

 突然の再会に、俺は酷く狼狽した。

「大学の後輩なんですよ、俺」

 まさか元彼だと言う訳にもいかず、どう返事をすればいいのかと考えあぐねていると、ワードが代わりに答えてくれた。

 驚いた表情をしたのは一瞬で、すぐに再び笑顔になると、す、とメニューを差し出した。

「ご注文、どうされますか?」

「私はカフェモカアイスで!クリーム多めでお願いします!プレームは?」

「……あ〜…ん〜………?」

 俺はコーヒーに詳しいわけじゃないし、ここのカフェはお洒落な飲み物が沢山あるみたいで、正直、メニューをパッと見ただけじゃ、何がどんな飲み物なのかよく分からない。

「……カフェラテは、どうですか?」

 悩む俺を見たワードがメニューの一番上、少し大きくて太字で書いてあるそれを指さした。

「この店の、看板メニューなんです、カフェラテ。それに、先輩、ブラック飲まないですよね?」

「あ、…うん」

 苦いのはあまり得意じゃない。よく覚えていたな、と思う。最近飲むものと言えばお茶か水だし、彼女と一緒にいるときは、あれが飲みたいこれも飲みたいというから、彼女に任せていた。

「じゃあ、それで頼むよ」

「ありがとうございます」

「折角だから、店長さん少しお話しましょうよ!」

 ぽん、と手を叩き、彼女が余計な提案をした。

「…それは、迷惑だろ?店のことやらないといけないんだし」

「…大丈夫ですよ、俺、丁度これから休憩するところだったし」

 何とか回避しようとしたのに、ワードはさらりとその提案をのむから、俺は思わずワードを睨む。

 正直、ワードと普通に話せる自信がなかった。どこかで、ボロが出てしまいそうで。

「やったぁ!ありがとう店長さん!あ、ワードさんの方がいいかしら?」

「好きに呼んでください、飲み物、出来たらお持ちしますから、お好きな席で待っていてください」

 俺が睨んでいても気にすることなく、彼は俺達にニコリと営業スマイルを向けると、奥へ入り飲み物を作り始める。

「行きましょ、プレーム、あそこ、窓際がいい!」

 彼女に引っ張られるようにして、店の奥へと入っていく。俺はワードの背中を見つめた。当たり前だが、彼は振り向かない。

(……今更、再会したって)

 元には戻れないのに。

 

「美味しい〜!!」

 出された飲み物をまずスマホのカメラに収め、一口飲んだ彼女が声を上げる。エプロンを外したワードが、俺達と向かい合うように座った。

「よかったです、チョコチップも多めにしておきましたよ」

「ワードさん優しい〜!!ありがとうございます」

「…先輩も、飲んでくださいよ、折角心を込めて淹れたのに」

 唇を尖らせ拗ねたような表情を見せる。心の奥底が、ぎゅ、と潰されたように痛い。

「そうよ、プレームどうしたの?さっきから全然喋らないじゃない」

「…そうか?気のせいだよきっと」

 心配そうな彼女の頭を軽く撫でて「いただきます」と呟き何度か息を吹きかけ軽く冷ますと、カップに口をつける。

 ふわりと香るコーヒーの香り。苦味と旨みのバランスが良く、ミルクの甘さが口の中に広がった。緊張していた身体に、じんわりと染み渡る。

「……美味い」

 素直に、美味しかった。自分でも固まっていた顔の筋肉が緩んだのが分かった。

「…よかったです」

 ワードは目を伏せて静かに笑う。

「お前、店長なのか?」

 俺はワードの胸にあるネームプレートを指さして尋ねる。

「店長っていっても、雇われですよ。オーナーが別にいるんですけど、まぁ、好きにやらせてもらってます」

 聞けば、大学卒業後企業にも務めたが、仕事が合わずに辞めてしまったらしい。職を転々としていた時、この店のオーナーに誘われたのだと言う。

「大変だったな」

「そうですね…でも、この仕事は好きなので」

「ねぇねぇワードさん、プレームって大学生の時どんな人だったの?」

 俺達の会話を聞いていた彼女が身を乗り出すようにして聞いてきた。上手くこの場を切り抜けたい俺にとって、その質問は厄介だ。

「お、おい」

「だって学生の頃の話全然してくれないじゃない、写真だって見せてくれないんですよ〜?」

「だから、写真は俺が撮る側だったから自分の写真が全然ない、って言っただろ?」

「それでも、自分の撮った写真すら見せてくれないじゃない!」

 見せられるわけない。見せたらきっと、バレてしまう。

 俺が誰に恋心を抱いていたのか、誰を想っていたのかを。

「プレーム先輩は、俺が新入生の時に工学部のワーガーをやっていたんですよ、印象最悪でしたよ、すぐキレるし、バカだし」

「ちょ、おいワード、バカってなんだ」

「え〜今のプレームからは想像つかない!」

 ワードに昔の事を話され(しかもバカと言われた)彼女には笑われて不機嫌になった俺は、眉を顰めて無言でカフェラテを飲む。

「ね、他には?」

 彼女が続きを促す。けれど、ワードはちらりと俺の事を見て、そして視線を逸らすと頭を掻いた。

「ん〜…まぁ、何だかんだ仲良くさせてもらいましたよ」

 そして、この話はもうお終い、というように手のひらをひらりと振る。

「それより今更なんですけど…モデルのフォンさんですよね」

「あっ、私のこと知ってるの?嬉しい〜!」

 彼女の顔が明るくなる。ワードが彼女の事を知っているなんて、少し意外だった。

「そりゃぁ、若い子達に人気ですから」

「それでもまだまだだよ〜」

「先輩との出会いは何だったんですか?」

 避けていた話題にさらりと踏み込まれて、俺は再び固まった。しかし彼女は嬉しそうに俺の腕を引っ張ると、自分の腕と絡ませた。

「えへへ〜まだ私があまり売れてない頃、たまたま雑誌の新人モデル特集の撮影にプレームが来ててね」

 楽しそうにその時のことを思い出す彼女。

 今の恋人が前の恋人に馴れ初めを話しているなんて、まるで地獄絵図だ。俺は居心地が悪すぎて、やっぱりカフェラテに逃げるしかない。うん、少し温くなったカフェラテも美味い。

「彼が撮ってくれたの、写真を!その写真がね、雑誌に載ったらすごく評判が良くて、それから仕事もいっぱい貰えるようになって、その時わかったの!プレームは私を幸せにしてくれる人だって!」

 アタックしまくってやっとオッケーを貰ったの!と締めくくると、彼女は自分で話したくせに照れたのか、えへへ、とまた笑ってストローに口をつけてわざと音を立てて飲み物を吸った。

「…素敵な出会いですね」

 ワードは目を細め、彼女へ優しく微笑む。

 かつて別れを切り出したのは自分からなのに、ワードのその言葉が残酷な刃となって俺の心に突き刺さる。

(…俺は、お前との出会いが一番心に残ってるよ)

 挨拶をしない、生意気な後輩。それはいつの間にか、少し気になる後輩になって、恋人になって、それで、今も。

「ありがとうございます!惚気になっちゃってごめんなさい」

「いいえ、お話聞けてよかったです」

 ワードは立ち上がると、俺達に向かってにこ、と営業スマイルを向けた。

「じゃあ、俺はこれで。ごゆっくり」

「ワッ、ワード!」

俺は思わず大きな声を出して立ち上がる。ガタンっ、と椅子が揺れて、彼女がきゃっ、と小さな悲鳴をあげた。背を向け立ち去ろうとしたワードが、おもむろに振り返る。きゅ、と閉じられた唇は、笑っていない。俺のことを窺う瞳が、少しだけ揺れた。

「……はい」

「……その……」

 再会したのに、このまま別れるのは嫌だった。せめて、出会った頃の、先輩後輩の関係くらいには戻りたい。

「……あ……えっと……その、また、来ていいか、店に」

 必死に呼び止めた割に出てきた言葉はそれだけで、俺は彼の新しい連絡先すら聞けない、臆病な奴だった。

 ワードは一瞬きょとん、とした表情を見せてから、ぷっ、と吹き出した。

「勿論、構いませんよ。だってここはカフェですよ、俺は店員で、先輩は大切なお客様。来るな、なんて言うわけないでしょ?」

「そうよプレーム、いきなり立ち上がって何言い出すのかと思ったわ」

「…あ、あぁ、そうだな、ごめん、驚かせて」

 俺は恥ずかしくなって、身体を縮こませて椅子に座り直した。こんなにも大人びていい男になったワードにどうも慣れなくて、調子が狂う。

「…先輩、変わってないね、そういうところ」

「ん?なんか言ったか?」

「いいえ。またお待ちしています」

 最後にワードはもう一度柔らかい表情で俺たちに挨拶すると、戻っていった。

「ワードさん、素敵な人ね」

 彼女が彼の後ろ姿を見送りながら呟いた。

「…うん。良い奴だよ、とっても」

 無意識に、そう返した。ちらりと彼女が俺の方を見る。

 もう、会えないと思っていた。笑った顔を見られないと思っていた。話すことなんて、もう、二度とないと思っていたから。

(…今日のスコールは、恵みの雨、だったのかもな)

 心の中の錆び付いた歯車が、再びゆっくりと動き出した。

 

◇◇◇

 

 御守りを結んでやってから、俺達は少しずつ距離を縮めていった。

 大学構内で会えばワードは俺に挨拶するようになったし、話しかければ素直に答えてくれるようになった。

 俺もワードが一人スリーポイントシュートの練習をするのをたまたま通りがかった時に見てから、何となくそこへ行けば彼に会えるんじゃないか、もっと仲良くなれるんじゃないかと思って、暇な時は足を運ぶようになった。

「見ていて楽しいですか?」

 俺の前へと転がるバスケットボールを追いかけてきたワードが、着ていた服の裾をたくし上げて汗を拭きながら尋ねる。ちらりと臍が見えた。汗でじんわりと湿った肌が、太陽の光できらりと光る。

 細くて薄くて、でもそれなりに筋肉のついた腰周り。俺は見てはいけないようなものを見てしまった気持ちになって、視線を逸らした。

「……楽しいよ、お前がスリーポイント外してるのを見るの」

「最低ですね、先輩、あなたはスリーポイントどころか普通にゴールにボールを入れるのすら下手くそなのに」

「俺は先輩だぞ、そんな言い方するなよ、普通だ普通」

「じゃあこの前みたいにハンデつけて勝負しますか?また先輩が夜飯を奢ってくれる未来しか見えないけど」

「ハンデさらに増やしてくれたらやる」

「それじゃ勝負にならないじゃん」

 気づけば冗談を言い合うくらいには、仲良くなっていた。

 

 その日もワードに勝てるはずもなく、俺はまた彼に夜飯を奢ることになった。

 金欠ぎみな俺は仲間にさえ奢ることなんてなかなかしないのに、ワードには既に三回も金を出している。しかも、ワードは何もない時でも夜飯を一緒に食べないかと誘ってきた。

「誰かと一緒に食べる方が、一人で食べるより美味しく感じるって、最近気づいたんですよ」

 一人でいることが多いとコングたちに聞いていたから、わざわざ誘ってくれるなんて珍しいな、と何度目かの食事を共にした時にそれとなく伝えれば、少し恥ずかしそうに彼はそう答えた。

 確かに、誰かと食べる飯は美味い。それに、ワードと一緒にいるのはとても心地がよかった。

 取り留めのない話をしつつどこの店に入ろうかと街を歩いていると、生暖かい風が吹き街の木々が揺れ始め、辺りが暗くなってきたことに気づいた。空が厚い雲に覆われる。

「やばい、ワード、雨が降りそうだ」

「…ほんとだ、これ、すぐにでも降ってきますよ」

 風で靡く前髪を押さえ、ワードも黒い雲のある方を向いた。そう言っている間にも、空からぽつりぽつりと、耐えられなくなった雨粒たちが俺達の上へ落ちてきた。

「降ってきた!急げワード、とりあえず走るぞ!」

「え、どこに?!」

「どこか!」

「はぁ?!」

 俺達は急いで屋根のある、雨宿りできそうな場所を求めて走り出した。

 けれど雨雲は俺達の都合なんてお構いなしに雨を降らす。雨足はどんどん強くなり、風も酷くなる。

「やばいですよ先輩まじで!!」

「知ってるって、あ〜〜こんな濡れちゃ店にも入れねぇ!!」

 前が見えなくなるくらい、酷いスコールだ。

 バシャバシャと音を立て雨風に文句を言いながら、軒のある商店街に逃げ込む。ふと視線を向けた先に、通りから一本入った所にシャッターの閉まった店が何件か連なっているのが見えた。人通りも少ない。

「開いている店の前で立っているのも迷惑だし、あそこで座って止むのを待とう」

「分かりました」

 俺達はシャッターの閉まった店先に座り、同時に息を吐いた。

「……疲れた…」

「だらしないですね」

「とか言いながら、お前だって肩で息してるだろ」

「雨の中走ったんだからしょうがないでしょ」

 顔を見合わせ、同時に口元を緩ませた。

「…ははっ、びしょびしょだな」

「そうですね……鞄抱えてたけど、中身大丈夫かな……」

 ワードは鞄の中を開けて中を確認して、なんとかセーフでしたと一息ついてからタオルを取り出し、髪を拭き始める。もう一枚を手に取ると、俺の方へと突き出した。

「これ、使ってください、予備で持ってたやつ、まだ俺使ってないから綺麗ですよ」

「…ありがとう、悪いな」

 ここは素直に受け取ることにした。顔を拭こうとすれば、雨の匂いと共にふわりと柔軟剤の香りが鼻を擽る。こいつの服からいつもする匂いだ、と思ってから、何を考えているんだと頭を振った。

 やっぱり、おかしいと思う。

 あいつと次どこへ飯を食いに行こうかとか、何が好きなんだろうとか、最近ワードのことばかり考えている。

 ワードが笑うと自分も嬉しいし、楽しそうにしているのを見ると自分も楽しくなる。

 そんなの、まるで。

(…恋、してるみたいじゃないか)

 恥ずかしい。俺は自分の顔を隠すように頭からタオルを被る。

 ワードはそんな気持ち、これっぽっちも持ってないだろうに。俺のことなんて、最初は嫌いだったけど、最近は飯を奢ってくれる先輩、くらいにしか思ってないだろう。

 タオルの隙間から、俺は隣に座るワードを盗み見る。

 髪を適当に拭いたワードは、ただじっとスコールが通り過ぎるのを待っていた。どこか遠くへ視線をやって、何を考えているのか、俺には全くわからない。

 着ているシャツも濡れていて、所々肌に張り付いていた。褐色の肌が透けて見えて、どぎまぎしてしまう。

(……先輩として、しっかりしないと)

 息を深く吸って、吐いた。気持ちを落ち着かせる。

 俺も、顔を上げてザァザァと叩きつけるような雨音を静かに聴いていた。お互い、無言だった。

 とん、と左肩に何かが触れた。

 ワードの肩だった。彼はそのまま、俺の肩へ自分の頭を乗せる。

(…えっ?)

 例えば、これが仲のいいブライトとかだったら、何してるんだよと笑い飛ばしてやればいい。

 例えば、これが後輩…そうだな、コングポップとかだったとしたら、どうしたんだと聞いてやればいい。まぁ、そんなことはないだろうけど。

 でも、相手がワードだったせいで、俺は酷く動揺した。気になっている奴にそんなことされたら、誰だってドキドキするだろう?

(落ち着け、落ち着け)

 ワードが何を思ってこんなことをしたのか、謎だ。ただの気まぐれ?それならやめて欲しい。

「…ワード?」

 俺はただ、恐る恐る名前を呼び彼の様子を窺うことしかできなかった。

 ワードは、少し頭を上げるとじっと俺の事を見る。

 何かを求めているような、彼の瞳に宿る熱に、鈍感な俺でもその意味に気づいてしまった。

 心臓がバクバクとデカい音を立てる。雨の音も、強い風の音も聞こえなくなる。世界から雑音が消えて、互いの息遣いだけがする。

「…せんぱい」

 少し、舌っ足らずな言い方で俺を呼んだ彼の唇から、目が離せない。

 どちらが先に動いたか、わからない。

 ワードが目を伏せ、そして閉じたのが見えた。俺もつられて目を閉じる。

 合わせた唇は、しっとりと濡れていた。

 触れるだけの口付けの後、鼻が合わさる程度まで顔を離すと、視線が絡まり合った。互いに見つめ合い、唇へ視線を落とし、再び唇を合わせる。

 辺りが見えなくなるくらい酷いスコールは、俺達のことを世界から隠してくれているようだった。

 何度か唇を触れ合わせ、ワードの下唇を遠慮がちに食んで、ちぅ、と名残惜しい音を立ててゆっくりと離れた。

 世界の音が次第に戻ってくる。軒に当たる強い雨音、ゴォゴォと響く強風。

 俺の気持ちは妙に穏やかだった。

 キスした瞬間に、分かったことがある。

(俺は、ワードが好きだ)

 そしてもう一つ。

(……ワードも、同じ気持ちだったんだ)

 心の中で、小さな幸せを噛み締める。きゅ、と心臓が甘く痛んだ。

 スコールが止むまでの間、俺達は何も言葉を交わさないまま、指先を絡めて身を寄せ合うようにして人通りのないそこに座っていた。

 俺達の関係の始まりに、言葉はなかった。言葉はなかったけど、通じ合えた気がした。

 

◇◇◇

 

「また来たんですか」

 俺の顔を見て、ワードは呆れたように肩を竦める。

「来ていいって言ってくれただろ」

 あれ以来、俺は週に三回くらいはこの店に通っている。今の仕事場からは、決して近くないのに。

「そんな頻度で来てたら金欠になっちゃうよ」

 ワードが砕けた返事をしてくれたことに、少しだけほっとする。あまり、よそよそしくされるのは嫌だった。

「それは昔の話だろ、今はちゃんと働いてるぞ」

「はいはい、ご注文は?」

「アイスコーヒー氷少なめと、カフェモカアイスにキャラメルソースかけて、あと、カフェラテホット。テイクアウトで」

「かしこまりました」

 初めて来た時はよく分からなかったメニューも、今ではスラスラと注文できるようになったし、彼女からのカスタマイズ注文にも対応できるようになった。

 お金を払い、彼が飲み物を作る様子をカウンター越しに見るのが密かな楽しみになっている。

 一つに束ねられた彼の髪が動く度にふわふわと揺れて、まるで動物の尻尾のように見えて可愛い。

 ここに来る理由はただ一つ、ワードの顔が見たいからだった。例えワードがもう俺の事が好きじゃなくても、俺は彼に会うのを止められない。

 ふとカウンター横の棚に目をやると、コーヒー豆が何種類か並んでいるのに気がついた。

「豆も売ってるんだな」

 返事を貰いたくて、少し大きな独り言。

 ワードがちらりとこちらを見る。彼はきちんと聞いてくれていた。

「えぇ。店で使ってる豆を売ってるんです、家でもコーヒーを楽しんでもらうために」

 出来たドリンクを紙の手提げ袋に入れながら、こちらへ戻ってくる。

「ふぅん」

「……先輩は家でコーヒー飲まないんですか?」

「ずっと淹れてないなぁ…」

「じゃぁ、小さいサイズのこの豆、ひと袋あげます」

 手提げ袋に、豆の入った小さな袋を一緒に入れてくれた。

「せっかくだから飲んでみて。これ、おすすめです」

「豆挽くところからやるのか?」

「挽きたてが美味いんです、あるでしょ、コーヒーミル、家に。俺、置いてったじゃん」

 再会して初めて、付き合っていた時の話題が出た。俺は口を噤む。視線を彷徨わせた。

「……まさか、捨てたの?」

 紙袋をぎゅ、と握りしめて彼は小さい声で呟いた。

「………捨ててないよ」

 思わず強く握られた手に自分の手を重ねる。ひんやりとしている、働く男の手だった。

「…ちゃんと、閉まってある。ありがとうな、それで淹れてみるよ」

 ワードの瞳を覗き込み微笑んでやれば、彼はほっ、と息を吐いて紙袋から手を離す。俺も慌てて彼の手から自分の手を退けた。

 俺達の間に流れた微妙な空気は、カランコロンと可愛く鳴るドアベルの音によって有耶無耶になった。

 

「戻りました〜」

「遅かったな」

 今日は彼女の雑誌の撮影で、先輩カメラマンのアシスタントをしていた。先輩は画面から顔を上げて、俺の差し出したアイスコーヒーを受け取る。パタパタと足音を立ててやってきた彼女にはストローをさして渡してあげた。

 俺の手を包み込むように、彼女の手が添えられる。指の長い、角張った少し冷たいワードの手とは違う、柔らかくて温かくて、綺麗に彩られた爪。無意識に比べてしまってから、何をしているんだと自分を責めた。

「ありがとうプレーム!」

 俺の変な行動に気づくことなく、彼女は俺からのドリンクに口を付ける。

 ぱっ、と彼女の周りに花が舞う。

「美味しい!やっぱりここのカフェモカが一番!」

「うん、美味いな。飲みやすい」

 先輩も味を褒めた。今度ワードに伝えてやろうと思う。

 俺も自分の注文したカフェラテを袋から取り出した。自分のカップだけに「仕事頑張ってください」と書かれているのを見て、思わず口元が綻んだ。

「そういえばプレーム、お前の持ってきた写真見たぞ」

 先輩は顎をしゃくり、デスク横に置いてある俺のアルバムを示した。

「センス悪くないんだけどな、ちょっと足りないんだよな」

「…足りない、ですか」

「そう?プレームの写真素敵じゃない!」

 彼女はアルバムを手に取ると、ほら、この日が沈む前の海の写真とか!と先輩に見せつけるように突き出した。

「そうだな、俺もその写真は好きだ。まぁ、フォンはプレームを贔屓にし過ぎな節もあるけど」

「当たり前じゃないですか、プレームは私の彼氏だもの」

「…何が足りないんでしょうか」

 俺は真剣に先輩に尋ねる。何度か先輩に風景を写した写真を見てもらっていたけれど、どれも反応は似たようなものだった。

「なんかさ、感情が籠ってないんだよな、お前の写真には」

 オブラートに包まれることも無く、先輩は欠けているものを指摘する。

「色が見えないんだよな…」

「カラーなのに?」

 意味がわからない、と言う風に彼女は首を傾げる。俺は黙って先輩の言葉を聞いていた。

「そりゃあ、普通の人から見たら綺麗な写真、かもしれない。でも、それで終わっちまう。お前がどういう気持ちでこの瞬間を切り取ったのか、俺には伝わってこないんだよ、まるで、義務的に撮ったみたいでさ。ただ夕焼けの映える海を写しましたよ、じゃ、本当の写真家にはなれない。そこにお前の想いをのせなきゃ、なんの意味もないんだよ」

「……」

 カフェラテを持つ俺の手に力が入る。紙のコップからじわじわと熱が伝わり、低温火傷しそうだった。

「ん〜、私には難しい…」

 ずずず、と彼女は音を立ててカフェモカを飲み干した。

「意識するしかないと思うけどな」

「……はい、アドバイスありがとうございます」

「早く続きお願いしますよ先輩!」

「わかったってフォン。もうすぐチェック終わるから、その間に着替えてこい」

「はーい」

 もう俺の写真に関心のなくなった彼女は、俺にアルバムを渡すと別室に行ってしまった。

 彼女は俺の写真を素敵だと言うけれど、それは俺が写真を整理している横にいる時だけで、撮った風景写真を見せて欲しい、と彼女から言われたことはなかった。

 静かに俯く俺を見て先輩は、落ち込むなよ、俺個人の意見なんだし、と励ましてくれた。

「お前が初めて見せてくれた、ベランダみたいなところから見下ろす様に撮った街の景色の写真、あれはすごく良かったのにな、まだ写真家になろうと思ってなかった頃の方が純粋な心があってよかったのか?」

 笑いながら俺の肩を叩き、自分の作業に戻る。

(…じゃあ、俺には無理かもしれない)

 俺はスタジオの灰色の床をじっと見つめた。

 その写真は、ワードと初めて夜を共にした次の日の昼間に撮ったものだった。

 多幸感に包まれながらベランダから一人街を見ていたら、なんかとても世界がきらきらしているように見えて、あぁ、好きな人と一緒になると、いつも見ていた何気ない風景さえこんなにも綺麗に見えるんだ、と思って、シャッターを切ったのだ。

 眠い目を擦りながら隣にやってきた彼に見せたら、すごくいいね、なんか、別の街を見ているみたい、と褒めてくれた。その瞬間、写真を撮ることを仕事にしたい、ワードに沢山綺麗な景色を見せてやりたい、と強く思った。

 でも、ワードと一緒にいることの出来ない今の俺には、もう、そんな写真は撮れない。

 

 付き合っていた時、俺達はどこまででも行ける気がした。

 一緒に住んで、何でも共有して、色んな場所に行って。沢山写真も撮った。肌を合わせて、互いの体温が混じり合う瞬間が幸せだった。ずっと一緒に居られると思っていた。

 でも、それはあまりにも子供がするような恋愛で、余裕なんてなくて。

 お互い自分の気持ちだけが先走って、ちょっとしたことで嫉妬して、その怒りを相手にぶつけて、こんなに好きなのに辛くて苦しくて、いつの間にか一緒にいない方がいいんじゃないかと思うようになった。

 もっと話し合えばよかったのかもしれない。でも、俺達は互いに自分の本心を簡単には口にできない、口下手な奴だった。それに、好きだという言葉を気軽に使ってその場を凌げたとしても、いつかそれすら薄っぺらく聞こえてしまうような気もした。

 段々笑顔がなくなって、このままだと壊れてしまうと感じて、別れた。

「俺達、離れた方がいいかもしれない」

 ベッドに二人座っていた時に、徐に口に出した言葉。本を捲っていたワードの動きが止まる。

「…これ以上、お前を壊したくないよ」

 俺は、その後の言葉を続けることが出来なかった。ワードも何も言わない。

 外はどんよりと暗くて、俺達が無言になっている間にスコールがやってきた。窓ガラスに叩きつける、雨風。静かな室内。動かない、俺達。

 どれくらい経っただろう。

「………そう、だね」

 小さな声で、ワードが絞り出すように呟いた。

「……一緒にいても、つらい、だけだもんね」

 俺は涙を見せないように必死に下唇を噛んでいた。俺から切り出しておいて、俺が先に泣くのはおかしいと思ったから。でも、ワードは涙の一滴も零さずに、ただ、開いただけの本の一点をじっと見つめていた。

 小さく震える手を、握ってやることはできなかった。

 その日は珍しく、スコールは二時間以上も続いた。

 

 終わりは、あまりにも呆気ないものだった。

 そして、別れた後にわかった。一緒にいると辛くて苦しいけれど、それでもワードが隣にいない事の方が、何倍も苦しいことに。気づかないうちに、俺は彼を深く愛してしまっていたのだ。

 それから、彼が隣にいない俺の瞳に映る風景はどれもモノクロにしか見えなくなった。

 それでも俺は写真を撮り続けていた。いつか、再び自分の世界に色が戻ることを願って。

 

◇◇◇

 

「……あった」

 俺はキッチンの吊り戸棚から、木目デザインの手動コーヒーミルを取り出した。

 ワードと一緒にいた時、彼はよくコーヒーを淹れてくれたな、と豆をくれた時に思い出した。

 彼はあの頃からコーヒーが好きで結構拘っていて、一緒に住んでいた時に俺は彼の作るカフェオレをよく飲んでいた。

 苦いのはあまり好きじゃないと言ったら、子供だね、と笑って、これならいいでしょ、と出してくれたのがそれだった。今まで飲んだどのカフェオレよりも美味しくて、彼がコーヒーを淹れる時はいつも一緒に作ってもらっていた。

 ずっと仕舞われていた可哀想なミルは、記憶の中の色合いよりもやや褪せてはいたけれど、ハンドルを試しに回してみたらきちんと動いて安心する。

 豆を入れて、ハンドルを回す。ゴリゴリという音と共に、コーヒーの香りが広がった。

 小さな取手をひっぱり、挽かれた豆の粉をドリッパーにセットしたペーパーフィルターに入れて、沸かしておいたお湯を注ぐ。

 ぽたぽたとコーヒーが落ちていくのをじっと眺めていた。

(…やっぱり、好きなんだよなぁ……)

 彼女がいるくせに何を言っているだと、誰かに非難して欲しかった。日に日に増す想いが、いや、胸の内に無理矢理仕舞い込んでいた想いが、溢れて零れ落ちそうだ。溜まっていく黒い液体が、まるで自分の後悔と未練の塊のように見えた。

 でも、気持ちと勢いだけで進むことは、大人になり本気の恋に臆病になった俺にはできない。

 ある程度コーヒーがポットに溜まったところでお湯を注ぐのをやめる。ブラックなんて飲めないけれど、味の感想を言うにはとりあえずブラックじゃないとわからないと思って、マグカップ半分くらいにそれを入れて、ちびりと口を付けた。

「………にがい………」

 素人だからか俺の舌が音痴なのか、味はよく分からない。試しに、かつてワードがやってくれた、温めたミルクを入れてカフェオレにしてみたけど、あの時のような感動はなかった。俺は一人首を捻る。

(…豆は、いいはずなのに)

 挽いた時はいい香りがしたのに。俺のやり方が悪いのか、それとも、こんなどろりとした気持ちがいけないのか。

(まぁいいや、今度、機会があるときワードにコツを聞いてみよう)

 そうすれば、彼との話のネタが増えるから。

 

 カフェの前についてCLOSEの文字を見たときに初めて、今日が休みだったことを思い出した。この前店に来た時に貼り紙を見たのにすっかり忘れていた。

 彼女からのデートの誘いをやんわり断り、わざわざ家から遠いカフェへとやってきた。口はもういつものカフェラテの気分だったのもあって、少し残念だ。

(もう、生活の一部だからなぁ)

 ワードの作るカフェラテだけじゃない、彼の仕事姿を見ることも最早俺の生活の一部になっていた。未だに、カフェの店長と客という関係から進むことはできていないけど。

 俺は仕方なく来た道を帰ることにした。歩き出してほんの数分後、ぽつりと頬に水滴が当たる。

 上を向けば、先程まで快晴だったはずの空は雲に覆われていた。ゴォッ、と強い風が吹いて辺りの木々を揺らす。

 あ、と思った時にはもう遅い。雨が降り出した。

「げっ」

 この辺で屋根があって雨宿りできそうな所はワードのカフェしか思いつかなくて、結局あいていない彼のカフェへと戻り、入口の前の屋根の下へと避難した。風のせいで雨が降りこんでくるけれど、何もないよりましだ。

 雨風のせいで全身がびしょびしょの俺は、そこへ座り込む。この様子じゃ、すぐに止みそうにない。

(……暫く、ここにいよう)

 少し肌寒く感じて、俺は身体を縮こませ、自分の腕に手を回して擦る。

 カチャ、と背中で鍵の開く音がする。

 驚いて振り向くと、ワードが心配そうな顔をして俺を見下ろしていた。

「ワード…?今日、休みだろ?」

「…そうですけど、新作の試作していたんです。それより、先輩びしょびしょじゃないですか…なんでここに」

「うん、カフェ休みだってここに来てから気づいてさ……帰ろうとしたらスコールにやられて、雨宿りできるとこここしかなくて…ごめんな、入口塞いで。止んだら帰るから」

「そんな濡れたままでいたら風邪ひいちゃいます、風も強いからこんなとこいても雨も降り込んでくるし、店入ってください」

「大丈夫だよ、店内汚したら申し訳ないし」

「俺が心配なんだよ!!」

 迷惑をかけたくなくて断ろうとしたら、目を吊り上げたワードに怒られた。

「あんたが風邪ひいても俺は見舞いにいけないんだよ、昔みたいにッ!大体そんな濡れて身体震わせてるあんたを俺が放っておけるわけないだろ!!わかれよッ!!!」

「…ワード……」

 彼の唇は震えていた。

 思いがけない事を言われて驚いたと共に、俺の事を心配してくれたこと、そして再会して初めてワードにあんたと言われたことが嬉しかった。付き合っていた時にした喧嘩を思い出す。それすら、俺の中で懐かしくて愛おしい思い出になっていた。

 俺は立ち上がると、怒っているくせに泣きそうな彼をとっさに抱きしめようとして、自分は今濡れているしワードの恋人でもないことに気づいて、中途半端に上げた腕を下ろした。

「……ごめんワード。そんな顔するな」

「……どんな顔だよ」

 ワードは固く唇を閉じてふいと横を向いた。

 あぁ、その表情。お前は、気まずくなるとすぐに顔を背けるよな。

(大人になっても、そういうところは変わってないんだな)

 愛おしさが一気に溢れた。

「……昔みたいに、抱きしめてやりたくなるだろ………」

「…ッ……」

 ゴォォォ……!!!

 強風が俺達の会話を邪魔する。思わず出てしまった自分の本心は、果たしてワードに聞こえてしまったのか。

「………とりあえず」

 そっぽを向いたまま、ワードが口を開く。頬に少し赤みがさした。

「……中、入ってください。今日は休みだから、少しくらい店内が濡れたって構わないから、スコール止むまでいてください」

「……わかったよ」

 俺は素直に返事をすると、ワードの後に続いて店内に入る。

 いつも店内で流れているジャズも今日は流れていなくて、雨の音がよく響いた。

「これ、使ってください」

 奥から戻ってきたワードは、俺に大きめのタオルと服を一式渡してくれた。

「バスタオルなくて、それが一番デカいやつです。服はここの制服で申し訳ないんですけど…」

「ありがとう、助かるよ、着られるならなんでも」

「温かいもの作るんで、着替えたら座っていてください」

 キッチンへ入るワードを見送り、俺は着ていたTシャツを脱いで、適当に髪を拭く。ワードが飲み物を作る姿を見たくて、ある程度水気を取った俺は、服も着ないままカウンターに近づく。

 今日は休みだからかワードは髪を束ねていなかった。耳にかけていた前髪が作業をしていてはらりと前に落ちるのを、思わず見入ってしまった。動く度にさらりさらりと揺れる髪が、俺の視線を釘付けにする。

(触れたい…でも、触れられない)

 俺の視線に気づいたワードが顔を上げる。そして俺がまだ服も着ていないことが分かると、途端に顔を顰め、再びエスプレッソマシンと向き合う。

「早く服を着てください」

「いいじゃん、誰もいないし」

「俺がいる」

「お前ならいいじゃん」

「先輩ッ!」

 コンッ、と持っていたホルダーをカウンターに強く打ち付け、ワードが声を荒らげた。

「先輩が良くても俺が良くないって言ってんの、分かってよ…!」

「ッ……」

 ワードの声が店内に響いた。外では相変わらず雨が降っていて、強風によって窓ガラスに雨が叩きつけられている。

「……ほら、風邪ひきますよ、早く着替えて」

「……わかった」

 俺は仕方なくそこから離れて、渡された服に着替える。

 怒鳴るほど俺の身体を見るのが嫌だと言われると、やっぱりショックだ。でもそれは自業自得なのかもしれない。離れようと言ったのは自分だ。嫌なことを思い出させてしまうのなら申し訳ないことだし、ワードを困らせたくない。

(…笑った顔が見たいから)

 恋人に戻れないのならせめて、今の関係を悪化させるのだけは避けたかった。

 

「どうぞ」

 着替えて窓際の席に座り止まない雨を眺めていたら、ワードがテーブルにコトリとカップを置いてくれた。ふわりと白い湯気が上がる。

「カフェラテ。少し蜂蜜入れて甘めにしましたよ」

「ありがとう」

 一口飲めば、いつもよりもまろやかな甘さが口の中に広がる。

「…美味い!なんか、花の香りもする」

「蜂蜜、ラベンダーのやつにしたのでそれかも」

「凄いなぁ…あ。この前貰ったコーヒー豆、飲んでみたんだけどさ」

 目で座れよ、と促せば、ワードはテーブルを挟んだ向かい側の席に腰を下ろした。

「いい豆なんだろうなってのはわかったけど、あまり上手く淹れられなかったんだよ…コツないか?」

「コツですか?ん〜…」

 ワードは顎に手を当てて少し考えるような仕草をする。

「最初、お湯を少し注いで粉全体にお湯を含ませたら、二十秒ちょっと蒸らすといいですよ。後は、一気にお湯を注がずに、ゆっくり円を描くように注いでみるとか」

「へぇ?ただお湯を注ぐだけじゃないのか」

「気を遣うところは沢山あるんです」

「そうか…ワードが家で作ってくれてたカフェオレには、そういう小さな気遣いが沢山積み重なってたんだなぁ…」

「…」

 このカフェラテでもそうだ。単純に甘さを足した訳じゃない、風邪をひかないように、疲労回復の効果もある蜂蜜を入れてくれたのだ。

(…今も昔も、俺の事を気にしてくれてたんだなぁ)

 そう思いながらカフェラテを飲めば、さっきよりも更に甘く美味しく感じた。心も温まる。

「…先輩、あの…」

 俺の事をじっと見ていたワードが、口を開いた時だった。

 カランコロン、と鳴らないはずのドアベルが鳴った。

「やぁワード、新作はできた?」

「っ、オーナー……」

 振り返ると、そこには俺よりも年上だろう、眼鏡をかけた男性が傘を折りたたんでいるところだった。

「…オーナー?彼が?」

「そうです、えっと…」

「あれ?今日はお休みのはずなのに、お客さんがいるの?」

 オーナーと呼ばれた男性は、俺の事を不思議そうに見ながら近づいてきた。すらりとした長い足、洗礼された服装、ふわりと香る、シトラスのコロン。大人の男だ。

「あっ、…オーナー、彼はプレーム先輩。俺の大学の時の先輩なんです。スコールにやられて店の前で雨宿りしてたから、入れてあげたんです」

「…こんにちは」

 俺は立ち上がって挨拶をした。彼は俺のことを頭の天辺から足の爪先までじろじろと見た後、わざとらしく笑顔を向けた。

「こんにちは、ここのカフェのオーナーのチャイです、よろしくね」

あまり見られるのも気分がいいものではなくて、俺は再び腰を下ろすとカップに口をつける。

「オーナー、こんな中なんで来たんですか?」

「それはワードに会いたいからだよ!」

 大袈裟に手を広げてワードにハグをしようと迫る彼から、ワードはやんわりと逃げて距離をとる。

「…んなの、一緒に住んでるのに何言ってんですか」

 その言葉があまりにも衝撃的で、俺は持っていたカップをガチャン!と強くソーサーに置いてしまった。床に落とさなかっただけマシかもしれない。

「…ワード、オーナーと住んでいるのか?」

 俺は目を見開いてワードを見た。

 ワードは、自分が言ったことに気づいて、あ、と口を開いた後、目を泳がせた。

「うん、僕ら一緒に住んでるんだよ」

 にこにことオーナーが代わりに答えた。

 俺はもうワードの恋人じゃないし、俺には彼女もいるし、彼が新しい人をつくっていても文句は言えないし、言う資格なんてない。

 でも、一緒に住んでいる、という言葉に俺は動転してしまった。

 俺が目を白黒させていると、言い訳するようにワードが言葉を発した。

「ほら、俺仕事辞めたって言ったじゃないですか、それで、寮出なきゃいけなくて、家が無かったんです、で、オーナーが俺にここの店長にならないかって誘われた時に、一緒に住めば家賃も安いからって、言われて………」

「そんな、言い訳がましくしなくても、付き合ってるって、言っちゃえばいいのに」

「…え?」

「オーナーッ!!!」

 挑発するような、オーナーの言い方。眉間に皺を寄せ叫ぶワード。唖然とする俺。

「オーナー……その冗談は面白くない…俺、あなたのこと好きだなんて言ったことないですよね」

「ごめんごめん、そんなに怒らないでよ」

 そう言ってオーナーはワードの頭を撫でる。相変わらずワードは不機嫌そうな顔をしているけれど、今度はそれを避けずにその手を受け入れた。

「……次はないです」

「うんうん、ごめんね」

 そのやり取りが、何だかんだ二人の仲の良さを窺わせて、とてもモヤモヤした。自分だって、ワードの目の前で彼女と似たような事をしていたくせに。

 ワードの耳に垂れた前髪をオーナーがかけてやるのを、俺は見てられなくて咄嗟に顔を背けた。

「……試作品、今から作るので飲んでみてください……先輩も、オーナーの事気にしないでゆっくりしていてください。この人、他人を揶揄うことが趣味なんだ」

 そう言うと、ワードはキッチンへと行ってしまった。オーナーはワードを見送ると、先程まで彼が座っていた席に腰掛けた。相変わらずにこにことしているこの人は何を考えているのか、心の中が全く読めない。

「酷い言い草だなぁ」

「…………」

 俺は、目を合わせないようにしながらぬるくなったカフェラテに静かに口を付けた。今すぐここから逃げ出したいけど、ゆっくりしていってとワードに言われた手前、一気に飲み干して店を出る訳にもいかなかった。

「…君は、ワードの何なの?」

 オーナーがいきなり際どい質問を投げかける。

「…なに、とは」

「付き合ってたの?」

「ゲホッッ?!」

 喉に流し込もうとしていたカフェラテが気管に入りそうだった。恐る恐るオーナーの顔を見る。口は笑っているのに、眼鏡の奥の瞳は笑っていなかった。鋭く俺を射抜く。

「……僕さ、勘がいいからそういうの分かっちゃうんだよね。それに、ワードのあの慌てよう……彼があんなに取り乱すことなんて、ほとんどないからね。いっつも、コーヒー以外興味ないですって感じなのに」

「……そう、ですか」

「ワードのこと、好きなんだよね、僕」

 いきなりそんなことを言われて、俺はどう返事をしていいのか分からない。

(…そんなの、本人に言ってくれよ…)

「あ、今なんで自分に言ってるんだ、て思ったでしょ?」

 完全に心を読まれていた。それとも、俺が顔に出すぎているのか?

 神経を逆撫でするような言い方をするこの人と仲よくなれそうにない。ワードには悪いけど、やっぱり今すぐにここから立ち去りたかった。この人と話していると、自分の本心を剥き出しにさせられそうで。

「だって、君は僕のライバルみたいなものだから」

「……俺には、彼女がいます。そんなこと俺に言ったって、どうにもなりませんし、どうもしませんよ」

 俺は努めて冷静に返した。けれど、彼は俺の言葉をあまり聞こうとはしない。勝手に話を続けた。

「彼にも伝えてるんだよ、何度も……でも、彼は決まってこう言うんだ……自分は、もう誰も好きにならない、誰にも心を乱されることはない。どれだけ愛してくれる人が現れたとしても、ってね」

「………」

「……ねぇ、プレーム君。君はワードに何をしたの?」

 ガタガタンッ!と俺は音を立てて椅子から立ち上がった。濡れている自分の服と、貸してくれたタオルを抱える。ちらりとオーナーを見た。

 もう、彼は笑っていなかった。

「………失礼します」

 挨拶をして、その場から立ち去る。ワードに声はかけなかった。

 ワードの俺に対する態度。オーナーの言葉。その二つはあまりにもかけ離れている。

 何が本当で何が嘘なのか、俺にはわからなかった。

(……もう、恋で失敗はしたくない…)

 店の扉を開き外に出れば、雲間から日差しが覗いていた。スコールはいつの間にか止んでいた。

「ッ、先輩ッ!」

 慌てて出てきたのであろうワードが俺を呼ぶ。振り返れば、必死の形相をした彼が俺の元へ近づいてきて腕を掴んだ。彼は無理矢理俺の掌を開かせ、紙を握らせる。

「………これッ、俺の…電話番号…」

「…え」

「…今度、夜飯久々に連れてってください。話したいこと、沢山あるんです……先輩の、都合のいい日で構いませんから、連絡してください。電話でも、ショートメールでも」

「…ワード……」

 一歩、ワードが俺に近づく。ブワッ、とスコールの名残っぽい風が吹き、ワードの髪が靡いた。目元を隠していた前髪から、意思のある瞳が俺の事を捉えていた。

「待ってますから、ずっと」

 そう言い残すと、俺の返事を待たずして店の中に戻って行った。

 俺は、そっと掌に押し込まれた紙を広げる。ここのカフェの名刺の裏に、走り書いたような数字の羅列が並んでいた。きっと俺が出ていくのを見て、急いで書いてくれたんだと思う。

 欲しかった、ワードの連絡先。夜飯の誘い。

(今すぐ彼を追いかけて、すぐにでも約束を取り付ければいい)

 心ではそう強く思っているのに俺の身体は言うことを聞かず、その場から動けなかった。

 離れても彼女をつくってもワードを忘れられなくて、再会してやっぱり好きだと再認識して、今、関係を進めることができるチャンスだったかもしれないというのに。

 俺は、いざと言う時やっぱり意気地なしだった。

 

◇◇◇

「……厶…プレーム…ねぇ、プレームってば!」

「……え?」

 名前を呼ばれてそちらを向けば、いつの間にかネイルを塗り終わっていた彼女が隣に座っていた。

「さっきからずっと呼んでたのに、全然気づいてくれない」

「ごめん……ちょっと考え事してた」

「も〜いっつもプレームは考え事ばかりね、最近はずっと難しい顔してるし……綺麗に塗れたから見て欲しかったの」

 眉を寄せ唇を尖らせて、彼女が塗った爪を見せてきた。きらきらと光るラメと淡いピンク色の長い爪。

 でも、俺が求めているのは、この指じゃない。

「……うん、可愛いね」

 無理矢理笑顔をつくり半ば棒読みに近い返事をして、俺はまた一人黙り込む。

 ワードから電話番号の書いた紙を渡されてから、店には行ってない。番号を登録はしたけれど、電話をかけることもメッセージを送ることもできていなかった。

 ずっと、ワードのことを考えている。

 自分から突き放しておいて再び好きだと伝えるなんて、あまりにも自分勝手だろうか。それに、ワードが俺のことをまた好きになってくれるのか、考え出せばネガティブなことばかりで、ぐるぐると一人思い悩んではスマホを握りしめる。

 すると、いつもは褒めると機嫌をなおす彼女が、今日は顔を顰めたままだった。

「…プレーム、本当に最近どうしたの?全然家にも遊びに来てくれないし、ずーっとスマホにぎって、でも何もしてないし。今だってなんか無理して笑ってるし」

 どきりとした。

 彼女は自分の事を話したり自分のやりたいこと、行きたいところに俺を連れていったりするようなタイプで、そういうところが俺にとっては楽だったし、俺の事より自分の事な彼女は俺の変化になんて気づかないだろう、とどこかで思っていた。だから、そこを指摘されるとは思ってもみなかった。

「私は写真とか詳しくなくて、感想が全部一緒になっちゃうから、申し訳なくて見せてとか今まであまり言ってこなかったけど、プレームが写真を撮ってる姿が好きだし、あなたの写真も好きよ。でも、この前写真を先輩に見てもらって以来、仕事以外でカメラ触ってない…気づいてないとでも思った?私がプレームに関心がないって思ってたの?そんなわけないじゃない」

「……」

 俺は耐えられなくなって、彼女から顔を背けた。言い返す言葉もなかった。全て、図星だったから。

 俺は知らなかった。彼女がこんなに俺の事を見ていたなんて。よっぽど俺の方が彼女に無関心だった。

 当たり前だ。俺は、彼女のことを本当に愛してはいなかったから。

「…ずっと行ってたあのカフェだって、最近行ってないでしょ?この前行ったらワードさんに言われたの、元気にしてるかって。心配そうな顔して。連絡先教えようかって言ったら、教えたんですけどねって、苦しそうに笑ったの。何してるのよ、あなた先輩なんでしょ?」

 両頬に手を添えられ、くるりと彼女の方へと顔を向けさせられた。彼女は真剣な表情で、俺の目を真っ直ぐ見た。その瞳には、涙の膜が張っていた。

「……プレーム。私に言いたいこと、あるんじゃないの?」

 

 電話をするのはやっぱり勇気が必要で、俺はショートメールで、明日の夜とかどうだ?とワードに短文を送った。これを送るのに、一体何日かけてるんだと呆れてしまう。

 数時間後、明日は休みだけど日中は店で作業をしているから、夕方店に来て欲しいと返事があった。

 次の日。

 俺は落ち着かない気持ちのまま、カフェへと向かっていた。ただ二人で会って夜飯を食べるだけなのに、変に緊張している。腹の調子もあまり良くない。

(…何から話せばいいんだろう)

 互いにそこまで口数が多い方でもないから、付き合う前も付き合っていた時も、沢山話をしたという記憶はない。でも、あの頃は黙っている時間すら心地よくて、ぽつぽつと話すゆっくりとした時間が好きだった。

 でもそれは昔の話で、今の俺にとって沈黙は恐怖でしかない。

 空模様も悪く、まるで俺の気持ちを代弁しているようだ。

 重い足取りで店の前に来ると、ガラス越しの先に人影が見えた。ワードだ。

 険しい顔をしたワードがカウンターの方を見て何か言っている。相手がいるようだ。

 出てきたのは、オーナーのチャイさんだった。言い返しているのであろう彼も、あまり楽しそうな表情はしていない。喧嘩でもしているのだろうか。

(…喧嘩か?)

 ここは彼の店だ。経営の話かもしれない。それなら俺が今入っていくのは場違いな気もした。

とりあえず様子を伺っていると、暫く距離を保って話していたオーナーがワードへと近づいた。そして、手を振り上げる。

 咄嗟に俺の身体が動いた。

 俺がドアを開けるのと、室内に乾いた音が響いたのはほぼ同時だった。

「何してるんですか?!」

 俺は走ってワードとオーナーの間に無理矢理割って入ると、ワードを自分の背中に隠すように庇うと少し背の高いオーナーを見上げた。

「…せんぱい……」

「…君は……」

 自分の頬に手をやるワードと彼を叩いたオーナーは、俺の姿を見て驚いていた。先に動いたのは、オーナーだった。眼鏡のフレームを直して、俺のことを凝視した。

「……どいてくれるかな、僕はワードと話をしてたんだけど」

「知ってます。外で少し見てました、邪魔したら悪いと思ってましたけど、あなたがワードを傷つけるようなことをするなら、俺はここを退きません」

 この前はこの人の目を見ることが出来なかったけど、今日は違う。しっかり目を見て言い返す。

 さっきまでずっともやもやぐるぐるしていた気持ちが、急に晴れた。

 ワードを守ろうと身体を張るのは、二度目だった。

 考えるより先に動いたその行動が、俺の気持ちの全てだ。

「いい加減、僕の邪魔をするのをやめてくれないかな」

 オーナーの顔は酷く歪んでいた。俺を殺しそうな目で睨みつける。

「僕はずっとワードを支えてきたんだよ、彼が望むものなら何でもあげたし何でもやってあげた。なのに…なんで僕の気持ちは受け取ってくれないの?」

「それは何度も言ってますよね」

 背中にいたワードが俺の横へ来てオーナーに食ってかかる。

「オーナーがしてくれた事は感謝しています。でも、それとこれとは違う、違うんだ」

「じゃあプレーム君はワードに何をしたんだ?何もしてないじゃないか!寧ろワードを傷つけて!!」

 オーナーは俺の胸ぐらを掴んで叫んだ。ワードが焦って止めようとしたけど、俺はそれを手で制して、オーナーの行為を受け入れる。

「知ってるか?ワードは今でも別れた時の夢を見て泣いてるんだよ、心から笑うこともない、いつもどこか殻の中に閉じこもってて……君に連絡先を渡してから、ワードはどれだけ待っていたと思う?!」

「やめて、オーナー」

 それ以上聞きたくない、言わないでくれとワードはオーナーに縋って顔を振る。けれど、俺に怒りをぶつける彼はそれに気づかない。

「ずっとスマホの画面を見てるんだよ?仕事していてもずっと手元に置いてて、鳴ったら急いで画面を見るんだ、それで、君からじゃなかった時の、寂しそうな表情ッ……君はどれだけ、ワードの心を掻き乱せば気が済むんだよ?!どれだけ悲しませるんだよ?!ワードを傷つけるなって?傷つけてるのはどっちだよ!」

「…俺は」

「イライラするッ!!…君には彼女がいるんだろう?はっきりワードを振ってやりなよ、もう、好きじゃないって」

「やめろッ!!」

ドンッ、とワードはオーナーを突き飛ばした。俺の胸から手が離れる。ふらりとよろけた。

オーナーはカウンターに手を付き、ワードを見つめる。やっとワードが泣きそうな表情でオーナーを見つめているのに気づいたようだ。鬼の形相だったオーナーは眉を下げてあたふたし出した。

「…っ、あ、ご、ごめん、ワード」

「…オーナー、俺はオーナーの事、嫌いじゃなかった。でも、もう、限界です。この店も辞めます、家も出てくから……」

「ごめんよ、ワード、許して」

 おろおろと伸ばされたオーナーの手を、ワードは躊躇なく払う。そして、ワードは一瞬だけ俺の事を見てから、目を伏せた。

「……ごめんなさい、先輩。やっぱ、今日の予定は、キャンセルします……自分から言っといて、すみません」

 そう言うと、ワードは付けていたエプロンを取って投げ捨てると、走って店の外へ飛び出していった。

「ワードッ!!」

「待ってプレーム君ッ!!」

 オーナーに腕を捕まれ俺は渋々振り返る。早く追いかけないと、次こそもう二度と会ってくれないだろうし、電話にも出てくれないだろう。

「なんですか」

「なんでそんなに彼に拘るんだ?君には彼女だっているのに」

「ワードは、俺の世界に色を付けてくれる存在なんです」

 俺は迷いなく答えた。オーナーの手を、そっと腕から外す。

「彼なしじゃ、俺の世界はモノクロのままだ」

 それが、俺の出した答えだ。

 

 怪しかった雲行きは案の定スコールを連れてきた。強い向かい風に逆らって、俺はワードを追いかける。

「ワードッ!待ってくれ、ワード!!」

 ワードは俺の呼ぶ声を無視してひたすら走る。振り向こうともしない。雨も降り始め、視界が悪くなる。全身がびしょびしょになって、身体が重くなって、それでも、ここで足を止める訳にはいかない。

「ワードッ!止まってくれよ!ワード!!」

 俺は雨風の音に負けないように必死に呼び続ける。ワードが立ち止まったのは、誰もいない公園に入った時だった。

「…ワード……」

「なんで追いかけてきたんですか」

 手を伸ばせば、彼の背中に届く距離。そのあと一メートルが、遠い。

 スコールの音に掻き消されそうなくらい小さな声で、ワードが呟いた。

「…聞いたでしょ、さっきの。…女々しいでしょ、俺。もう、先輩と離れて、どれくらいになるんだろうね…最初は数えてたけど、そんなことしても先輩は帰ってこないから、二年と三カ月くらいでやめたよ」

 はは、と彼は自虐的に笑う。

「…先輩と再会した時、すごい驚いたし、……彼女がいるの、ショックだったけど、でも、嬉しかったよ…沢山お店にも来てくれて……もう、会えないと思ってたから」

「……ワード……俺」

「ごめんね、先輩。嫌な思いさせて」

 ワードの肩は小さく震えていた。下を向き、手を握りしめる。

「でも、気にしないで…俺、先輩に迷惑かけないよ。もう、先輩には会わない…連絡もしない……邪魔なんて、しないから……だから……」

 ゆっくりとワードが振り返る。

 雨じゃ誤魔化せないくらいの涙を流し、ぐしゃぐしゃな顔をした彼の戦慄く唇が、言葉を紡いだ。

「………今でも好きでいることだけは、ゆるして」

 俺は腕を伸ばし、雨だけのせいではないだろう、震えるワードを強く抱きしめた。

「……ごめん、ごめんな、辛い思いさせて…」

 雨と共に流れて消えてしまわないように、俺はワードの耳元に唇を寄せて、ずっと言いたくて、でも言えなかった気持ちを吐露した。

「……あの時は、別れる事が俺たちにとって一番いい選択肢だと思ってたんだ、でも、それは間違ってたって、離れてから気づいたよ…お前がいなきゃ、俺は俺じゃいられないって」

「せんぱい……でも、彼女が……」

 肩口にかかる、ワードの息が熱い。俺はワードの濡れた長い髪にそっと指を差し入れた。

 再会してから、ずっと触れたいと思っていた。

「……彼女とは、別れたよ」

「……え?」

 がばりとワードは肩から顔を上げる。目が真っ赤に腫れていて、とても可哀想だ。

「…とりあえず、屋根のある所に行こう」

 俺はワードの手を引き、公園内にある屋根のついたベンチまで連れて行く。二人並んで腰を下ろした。

「……最近おかしいのは、ワードと何かあったんじゃないかって…はっきり言いなさいよ、って……彼女、薄々気づいてたみたい」

「……そんな……」

「……俺って、酷い男だよなぁ」

 俺はワードの頬に手をやると、彼の泣いて真っ赤な目尻に指を添わせて撫でてやる。

「……ワードのことも、彼女のことも泣かせて……でも、もう、自分の気持ちをしまっておくのはやめようと思って」

 俺は頬にやった手をそのまま腕へと移動させ、ワードの手を握る。

「……あの頃、俺達全然言葉にしてこなかったよな……言葉がなくても通じ合えていると思ってたけど、それじゃだめなんだ。きちんと伝えないとだめだって、わかったから」

 ぎゅ、と手を握りしめ、この気持ちがきちんと伝わるように、俺はワードを真っ直ぐ見つめる。

 彼はまた、大粒の涙を零して泣いていた。

「……好きだよ、ワード。あの頃から、ずっとずっと、好きだった」

 強く想えば想うほど、愛の言葉はシンプルにしかならなくて。

「……っ……うん……ッ、おれも、すき、せんぱいだけ……」

 でも、その一言は、とっても重い。

 ワードの鼻先に自分の鼻先をくっ付ける。ワードが瞼を上げる。涙の粒が睫毛について、きらりと光った。

「……お前は、俺の世界の全てだよ」

 雨に濡れていたワードの唇は、しょっぱかった。

 スコールは、やはり俺達の関係の変化と共にあった。

 

◇◇◇

 

「うん、美味い!」

 ワードが淹れてくれたカフェオレを一口飲んで、俺は頬を緩ませた。

 やっぱり、ワードが作るカフェオレが一番美味しい。

「それはよかった」

 自分のマグカップを持ってきたワードが隣に座る。ほかほかと柔らかい湯気が立っていた。

 ワードは、少ない荷物を持って俺の家へやってきた。その荷物の半分が、俺が撮った写真の載っている記事の切り抜きや写真集だから驚いた。彼女、フォンの写真集まで買っていた。

「お前、彼女のこと知ってたのかよ」

「あそこで写真集持っています、とは流石に言えないでしょ。先輩のクレジットが入ってるから買いましたなんて、失礼にも程がある」

 自分だけじゃなくて、ワードも俺の事をずっと想ってくれていて、影で応援してくれていたんだと思うと、とても嬉しかった。

「なぁ、あそこの店続けることにしたのか?」

 静かにマグカップに口を付けるワードを、俺は見つめながら尋ねる。さらりと落ちる前髪が気になって、手を伸ばしてそれを耳に掛けてやった。くすぐったそうに笑って、肩を竦める。

「うん。オーナーがもうあんな事しないから、店長は続けて欲しいって頭下げるし…それに、何だかんだ気に入ってるんです。ma cachette…て、意味、知ってますか?」

 俺の顔を見つめるワードの表情もとても穏やかだ。

「いや?知らないな。フランス語?」

「そうです。私の隠れ家って意味」

「…もう隠れ家に隠れなくてもいいからな」

「隠れませんよ、何処にも」

「オーナーと必要以上にベタベタするなよ」

「しないよ、昔みたいに嫉妬して怒鳴る?」

「もう大人になったしあの頃みたいに怒鳴ったりはしないけど…ちょっと、しょんぼりはするかな」

 俺が分かりやすく口を尖らせれば、ワードが俺の事を横から優しく抱きしめてくれた。ふわ、とコーヒーの香りがする。かつて煙草の匂いを纏っていた彼は今、香ばしいコーヒーの香りをさせていた。

「…大丈夫。俺は、先輩だけだから」

「…うん」

「先輩もフォンさんと仲良くするのは許すけど、二人で食事とかはやだよ」

「彼女は寧ろお前に会いたいって言ってたよ」

 顔を見合わせ笑い合うと、ちゅ、と軽く唇を合わせた。

 何気ないワードとの触れ合いが、俺の世界に色を付ける。

 彼と再び一緒になってから、俺の世界は綺麗に色付いて鮮やかになった。もう、モノクロの世界に閉じ込められることも、感情のないままシャッターを切ることもない。

 机の上に置いてある俺の相棒のカメラを手に取ると、俺は立ち上がりベランダに出た。

 街の方へレンズを向けると、ファインダーを覗き込みピントを合わせる。

 先程スコールが止んだこの街は、水溜まりや濡れた建物が太陽の光を反射してきらきらと光っていた。

(……まるで、あの時みたいだ)

 俺は、噛み締めるようにシャッターを切る。

「みせて」

 後ろから抱き着いてきたワードが甘えるように俺に声をかける。画面を見せてやれば、いいね、と目を細めて笑った。

「初めて泊まった日の次の日もさ、先輩街の写真撮ってたよね」

「覚えてたのか」

「写真見て初めて感動したから」

 自分の転機となったあの写真を覚えてくれていたことがただただ幸せで、でも少し照れくさくて、俺は口をもにょりと動かして、そこに立てよとワードを目で促した。

 彼は素直にそれに従うと、空を見上げた。

「…なぁワード」

 俺は彼の写真を撮りながら、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。

「お前の作るカフェオレって、何か隠し味とか入れてるのか?」

「なんで?」

 振り向きざま、ワードの髪がふわりと踊る。彼の柔らかい髪質がわかる瞬間を切り取ることが出来て満足した俺は、カメラを下ろしてワードに近づき、その長髪に触れた。

「コーヒーの淹れ方のコツを聞いてあれから何度かやってみたけど、やっぱりお前が作る味にはならないんだよ…なんでだ?」

 そうですね…とワードは少し考えてから、にっ、と子供のように口角を上げて無邪気に笑った。

「それは、俺が沢山の愛を込めて淹れてるからだよ」

 色鮮やかな世界で幸せそうに笑う彼を、俺は心のフィルムにそっと写す。

 もう、二度と手放さない。

 俺の世界に、色を付けてくれる君を。

 俺に様々な感情をもたらしてくれる、君を。

ひよこ_あとがき.png

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