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Missing Heart Passing Rain

Yorma

 下品な笑い声、呂律の回らない男の声、耳につんざく甲高い声が響く繁華街を1人歩く。

 泥酔して道で横たわる人、外にも関わらず発情している人、やる気のないキャッチ。

 ここは、いわゆる“夜の街”。

 欲に塗れた人間がここに集まり発散させる場所。

 そんな俺も例外なくこの街の常連である。

 

(くっそ、あいつヤリすぎだろ…)

 腰をさすり、つい先ほど体を重ねた男を思い出し舌打ちする。今日はハズレだ。

 重い足取りで繁華街を歩く。元々こういうところは苦手だ。そんな俺がここに毎晩のように通う理由。

 

 ポタッ___

 

 冷たい感触が頬を伝う。

 雨だ。雨は嫌いだ。

 あの夜を思い出すから____

 

 第一印象は最悪。その一言に過ぎない。些細なことですぐキレるし、難癖をつけては叱ってくるあの人が嫌いだった。あの人も俺を「厄介な後輩だ」と思っていただろう。俺とその人はまさに水と油だった。

 その人の印象が変わったのは大学のスポーツ大会の後。決勝で負けた理学部が難癖をつけてき複数人で喧嘩をふっかけてきた。元々喧嘩は強い方ではあったがさすがに複数人を1人で相手するには難しかった。試合で痛めた足のせいでうまく身動きが取れずされるがままだった。

 そこに偶々居合わせたあの人が助けに来た。よりにもよってあの人。

「大丈夫か?」

(よく言うよ、あんただってやられっぱなしだったじゃん)

 額から血を流す男を見てそう皮肉めいたことを思いながらも、心の片隅で助けてくれたことに安堵していた。

「大丈夫か?痛いか?」

「もうすぐだからな」

 医務室へ向かう道中、先輩は何度も何度も心配そうに声をかけてきた。聞いたこともないような、優しい声に少しむず痒さを感じつつも悪い気はしなかった。

 

 2人の関係が少しずつ変わっていったのはそれからだった。

 別に感情があったわけではないが、お互い落ち着いて話せるようにはなっていった。

 学部旗奪取大会後、儀式に参加せず帰ろうとした俺をブライト先輩は無理やり連れ戻しにきた。見慣れたグラウンドは、日が沈み、蝋燭の灯りで照らされていて全くちがう場所に見えた。そこでは先輩後輩の壁を越え、皆柔らかな表情で儀式が行われていた。そしてその様子に柔らかな表情でカメラを構える先輩がいた。その光景に俺は釘付けになっていた。先輩は、俺を見つけると少し安心したような笑顔を見せた。その笑顔に不覚にもドキッとした。初めてみる表情。それなのになぜか心地良いと思った。地べたに座ると先輩の手が伸びてきた。自分の細い手とちがい大きくて男らしい手は、御守りを丁寧に手首に巻いた。これからの大学生活、勉強、友人関係、大変だろうけど頑張れよ、そう彼は言った。助けてもらったあの日のことのお礼をすると「気にすんな、俺たちはピーノーンだろ?」と当たり前のように言うあの人に胸が痛んだ。彼が悪い訳ではない。ただ、どこかで期待してしまっている自分に少しばかり嫌悪感を抱く。

 先輩に対する気持ちを自覚したのはこの時だった。先輩と後輩という壁だけではなく同性であり、その相手が先輩だとは…自覚した当初はすごく悩んだ。正直、すれ違いざまに挨拶したり他愛もない話をする程度の仲だ。この気持ちを伝えるべきか否か。その答えはすぐに出ることはなく、気づけば先輩は大学卒業を迎えた。体調不良で卒業式に出席できなかった俺は、まともに挨拶ができないまま卒業していった。当然だが、その後進展はなかった。連絡先だって交換していないかったし、急に後輩から連絡が来ても迷惑だろう。

 大学三年生になり、ワーガーとして本格的に活動が始まる最中、俺は親父の入院を機に大学を休学することになった。忙しさから同級生と連絡をとる回数も減り、俺は親父の介護と勉強に追われる日々を過ごした。

 そんなめまぐるしい日々が過ぎ、休学から戻った俺を祝おうとコング達が飲み会を開いてくれた。飲み会の会場であるブライト先輩のお店に行くとそこに先輩がいた。カウンターに座り、ブライト先輩と楽しげに話す彼は以前より落ち着いた雰囲気で“大人の男“という感じだった。俺に気づくと先輩はあの日と同じ柔らかい笑顔で手招きをした。隣に座ると互いの空いていた時間を埋めるように話をした。その日以降からたまに2人で飲むようになった。学生の頃のような蟠りはなく、お互い落ち着いて思い出話に華を咲かせたりした。

 

「先輩が好きです」

 その日は珍しく酔っていた俺はつい口を滑らせた。先輩はグラスを持つ手を一瞬止め、「そうか」とだけ呟いた。

 静寂が2人の間を流れる。カランと氷がグラスの中で音を立てる。それが合図のように俺たちは唇を重ねた。

 

 そのままホテルへ向かい体を重ねた。それは熱く、だけどもどこか冷を感じるセックスだった。最中、キスはしなかった。あえてしなかった、というのが正解なのだろうか。ただただ本能に身を任せる二匹、いや一匹の哀れな雄がいるだけだった。

 朝目覚めると先輩の姿はなかった。跡形もなく、初めから何も始まっていなかったように、そこには温もりさえ残っていなかった。

 

 そしてそのまま先輩と会うことはなくなった。

  電話をかけても出ず、いつも2人で飲んでいたバーにも現れなくなった。

 激しく後悔した。先輩が姿を消した理由を必死に考えた。告白したから?キスをしたから?セックスしたから?どんなに考えても答えが返ってくることはない。

 

 あれから5年の月日が経つ。先輩の行方は分からないまま。心に空いた穴を埋めるように、忘れさせるために、こうして夜の街に足を運び一夜の関係を続けている。

 ボーッと歩いているとすれ違いざまに酔っ払いと肩がぶつかる。そのまま通り過ぎようとした俺に機嫌を損ねた男は俺の肩を掴み、怒鳴ってきた。酔った人特有の絡みは夜の街ではよくあることだ。男の手を振り払い除けた俺にさらに腹を立てた男は俺の肩を再度掴むと拳が飛んできた。頬に強い痛みを感じると共に生温い感触が口の中に広がる。地面に倒れ込んだ俺を男は殴り続けた。正直反撃する気力もなかった。いつもならうまく交わしていたこともあの人のことを考えるとそれで頭がいっぱいになる。頭がぼーっとする。雨脚が少し強まったせいか体も冷えてきた。痛い、寒い、もういっそこのまま殺してくれ、とさえ思ったその時だった。ドサっと何かが倒れる音がすると同時に「大丈夫か?」と声がする。朦朧とする意識の中、目を開けると先ほどの酔っ払いが泡を吹いて倒れていた。この人が助けてくれたのだろう、と目の前に立つ男を見る。殴られすぎたせいかし焦点が合わないまま俺は助けてくれた人に軽く手を合わせてその場を去る___とした腕を掴まれる。

「助けてくださって感謝してます。でもお礼できるほどのお金は持ち合わせてないんです。」

 振り返らず前を向いたまま淡々と言葉を紡ぐ。

「お前、ワードか?」

 心臓がドクンと跳ねる。忘れたくても忘れられなかったあの声だった。5年ぶりに聞くその声はあの時と変わらず優しく、だけども不安げだった。咄嗟に走りだそうとした俺を彼は強く掴んだ。

「お前、ここで何してるんだ」

 意を決して振り返る。そこには一番会いたくて、会いたくなかった人が立っていた。

「お久しぶりです…プレーム先輩」

 

◆◇◆


 

「今までずっとどこにいたんですか。みんな心配してましたよ」

「俺の質問に答えろ」

 今にも逃げ出しそうな腕を掴み力を込める。ワードは痛みに顔を歪めたが力を緩める気はなかった。

「……自分は姿を消しておきながらよくそんなことが言えますね」

 ワードの言う通りだ。5年も行方知らずだったのに突然こうして現れ、何をしていたか問い詰める。自分のことを棚に上げすぎにも程があるだろう。

「…なんでここにいるんだ」

「あんたには関係ないし。今更先輩面しないでくれますか?」

 目線を合わせることもせず淡々とワードは答えた。

「お前が何をしているかは知ってる」

「…はっ、知っててなんで聞くんですか」

 薄ら笑いを浮かべ、全てを諦めたような口調だった。

 自分でもなぜこうしてるか分からない。咄嗟に出てしまったのだ。あの時のように__

 

 ワードが理学部にリンチされていた時、あれは咄嗟の行動だった。喧嘩なんてあまりしたことない。気づいたら集団に向かって走っていた。案の定俺も一緒に殴られた。今思うと情けないと思う。

 ワードと俺との間の蟠りがなくなったのは御守りをを結ぶ儀式の後だった。前のようにどちらかから喧嘩を売ることはなくなった。すれ違いざまに挨拶したり、時には他愛もない話をしたり、“ピーノーン”として良い関係を持っていたと思っていた。

 “ただのピーノーン”としての関係に違和感を覚えたのは俺が大学を卒業してからだった。就職先が見つからずふらふらしていた俺にコングから連絡があった。「ワードが休学から戻ってくるお祝いをするのでいつものお店来てください」拒否権はないとでも言うような文面。怖ぇよ。

 ワードが休学していたなんて知らなかった。それもそうだ。連絡先だって知らなかったんだから。聞くところによると父親の介護のために休んでいたらしい。

 ブライトの店に行くとそこには懐かしのメンツと後輩たちの顔があった。俺は一通り挨拶を済ませるとカウンターに座り、店主であるブライトと酒を交わしていた。少し遅れてワードが店にやって来た。久しぶりに見たワードは少しやつれていたものの、元気そうだった。2人で飲むようになったのはそれからだ。無職で年中暇な俺とちがい、ワーガーとして多忙な日々を過ごすワードと時間を合わせるのは難しかったが、それでも1ヶ月に数回程2人で飲みにいった。

 それはワードが珍しく酔った日だった。

「先輩が好きです」

 挨拶をするように、サラッとした物言いだった。それが告白と気づくには時間がかかった。俺は告白の真意を確かめるべく頭を働かせた。酔っているし冗談で言ったのかも知れない。しかしワードの手は微かに震えていた。その時俺はワードが言っていることが本当だと知った。

 正直ワードのことは後輩としてしか見ていなかった。だからこそワードの告白に戸惑いを隠せなかった。沈黙が流れる。一瞬が長く感じる。

「キス、してみるか?」

 自分でも何を言ってるか分からなかった。考えるより先に体が動いていた。

 そして俺らは初めて一夜を共に過ごした。ワード相手に勃つか不安だったが体は素直に反応した。時折、下で泣きそうな表情を浮かべる後輩に後ろめたさを感じながらも俺は欲に逆らうことができずにいた。その日は一睡もすることができず、隣で規則正しい寝息をたてる後輩を見て、頭を抱えた。ワードの気持ちを弄んだ気がしてならなかった。罪悪感で押し潰されそうになった俺はホテルから出て、そのままバンコクを離れた。携帯も変え、連絡を一切絶った。

 あれから5年、俺は未だにあの日の出来事が忘れられずにいた。バンコクを離れてからは、仕事を見つけ、毎日ひたすら働く日々を過ごした。そうしないとあの日の記憶が頭をよぎってしまうから。

 ある日のことだった。俺の携帯にアーティットから着信があった。電話をとると携帯の主ではない男の声が流れた。

「お久しぶりです、プレーム先輩」

「…コングポップか、なんだ急に電話なんて」

「あなたに、折り入って伝えたいことがあります」

 大学を卒業したコングポップ達はそれぞれ就職先を見つけ働いていた。そんな中、ワードが毎晩のように夜の繁華街に入り浸っていること、体を売っている仕事をしていることを聞かされた。コングポップはそんなワードに何度もその仕事を辞めるよう説得したものの聞く耳を持たなかったと言う。そこで俺に電話したらしい。電話を切った後、俺は急いで荷物をまとめバンコクへ向かった。コングポップに教えてもらった街に足を運び、毎日ワードを探した。あいつが他の誰かと…なんて考えるとはらわたが煮えくりかえる気持ちだった。俺は、ワードのことが好きになっていた。繁華街を走りながら自嘲する。気づくのが遅すぎる。

 5年ぶりの再会はまるであの日の再現のようだった。

 

「…悪かった」

 目の前で俯いたままの後輩にせめてもの懺悔をする。俯いていたワードの顔が上がる。久しく見るその顔は、以前会った時より幾分か痩せており、生気を失っていた。長くなった髪の間から覗く目は何かを訴えていた。

「なんであんたが謝るんですか」

 ワードの声が微かに震えている。悟らせまいと抑えているつもりなのだろう。

「お前をこうさせてしまったのは俺のせいだ。頼むからもうこんなことはするな。俺がどういう気持ちで___」

「…そうやって勝手に決めつけてまた逃げる気ですか!?」

 俺の言葉をワードの声が遮る。しかしその声すら雨音でかき消されてしまう。

「俺はお前に幸せになって__」

「それはあんたの言い訳じゃん!」

 そうだ。俺のエゴだ。それでお前を傷つけてしまった。だけどここで手を離すわけにはいかなかった。

「あの日、俺の告白を受け入れてくれたんだって思った。あんたは俺のことただの後輩としか見てなかっただろうから、尚更嬉しかった」

 冷たい感触が背中をなぞる。先ほどから少しずつ降っていた雨が次第に強くなっている。

「…俺が間違っていた。でもお前には幸せになって欲しかったんだ…本当にすまない」

「だから…」

 このことが言いたい訳じゃない。だけど言わないと気が済まなかった。俺はもう片方の手でワードの手を取り、向かい合わせる形にした。

「お前のことはただの後輩だと思ってた。だからあの日のお前の告白に動揺した」

「じゃぁなんで…」

「俺もなんであの日お前を抱いたのか分からない。ただ抱きたいって思ったんだ。最低なりなんでも言えばいい…俺自身最低だと思う」

 雨が強くなり、体を打ち付ける。

「我に帰った時、お前にしてしまったことに激しく後悔したんだ。お前の気持ちを弄んだ気がして。だから…逃げた」

 ワードは黙って俺の話を聞いていた。

「バンコクを離れて仕事に打ち込んだ。だけどどうしてもお前を忘れることができなかった。ここにいることはコングポップに教えてもらった」

 ワードの手が微かに震えているのが伝わる。それは寒さからなのかまたは別のものからなのか。

「…自分勝手なのは分かっている。それでお前を傷つけたのも。今更って思ってるかもしれない…だけど俺にもう一度チャンスをくれないか?」

 沈黙が訪れ、雨の音だけが俺らを包む。

「…もう手遅れです」

「…」

「あんたのせいで俺はこんな気持ちに振り回された。もう疲れた」

「ワード…」

「あんたはもう知ってるだろうけど体ももう汚れています」

 ポツリ、ポツリと言葉を紡いでいく。

「…そんな俺でもあんたは愛せるんですか?」

 ゆっくりとワードが顔を上げる。俺はワードに歩み寄り顔にかかった髪をあげた。

「俺はお前がいい」

 胸の内に秘めていた言葉が雨音ともに響く。

「ワード、お前が好きだ」

 もう一度、噛み締めるように。ちゃんと伝わるように。

 ワードは少し笑うと俺の胸に頭を預けた。

 

「…遅いんだよバーカ」

 

 雨に降られながら大の男が2人夜の街で抱き合う。側から見たら物珍しいだろう。だけどそれも気にならなかった。もう二度と逃げない、そう心に誓って俺は胸で肩を震わせている後輩をそっと抱きしめた。

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