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二本の傘

mimi

 雨粒が窓を叩く音と、耳元で聞こえる鬱陶しいいびきで目を覚ます。

 雨の多い季節、二つ年上の男と一つの部屋で暮らし始めた。まだ二週間だ。この騒がしい不協和音には慣れない。

 一度その音に気づいてしまえば、また眠りに戻ることは容易ではない。カーテンの隙間から覗く外の世界は薄暗いが光がある。もう夜が明けてしまったのなら、と開き直って上半身を起こした。

「あーもう、うるさい……」

 あまりの煩わしさに隣で目を閉じた男の大きく開いた口をめがけて枕を叩きつけたが、顔を顰めさえしない。もう天国とばかりに幸せそうな寝顔を晒している。

 プレーム先輩は寝相が悪い。今も手足がばらばらの方向に放り出され、ベッドの半分以上を占領されるから窮屈だ。とはいえ安心してぐっすり眠っているという証拠だから大目に見ようとも思うが、寝ている間に掛け布団をどこかへやってしまうのはいかがなものか。薄い寝巻き以外に何も纏わず、おまけにTシャツがめくれて腹部が丸見えだ。ここ数日は天気が悪くて冷える。体調を崩さないか心配で足下でくしゃくしゃになったタオルケットを掛け直してやる。この行為は二週間ですっかり日課になっていた。

 卓上時計に手を伸ばし、顔に近づけて時間を確認すれば、もうすぐ七時だ。休日にしては早起きをしてしまった。

 時計を元あったところに置きなおしてもう一度隣にある寝顔に目線を戻すが、やはりまだ目覚める気配はない。

 やや不規則ながら繰り返されるいびきを聞いていて、何故か精神的にも窮屈さを感じた。自分の家でありながら急に居心地が悪くなり、飛び出してしまいたいと思った。

 理屈を考えるよりも先に身体が勝手に動いてしまって、纏っていた布団を剥いで寝床を出る。顔も洗わず玄関に向かうと、靴が何足か並んだ横に特徴のない一本のビニール傘がぽつんと寂しそうに置かれていた。昨日の朝まではここに二本立てかけられていたはずだが、目の前に残っているのは、土砂降りだった昨日、俺が使った方の一本。先輩が使ったであろうもう一本はどこへいったのかと考えながら、昨晩のことを思い出す。遅い時間に帰宅した先輩は全身びしょ濡れだった記憶がある。朝、持って出かけたその傘は、何らかの理由でもう使い物にならなかったのだろう。

 一人で散歩へ行くのに傘は一つしか必要ないとわかっているのに、なにか物足りなさを感じながら目の前の一本を手に取る。

 特に行く当てがあるわけではなかった。スマホだけをポケットに突っ込んで、履き古したスニーカーを引っかけて、本当に少し歩くだけのつもりだった。

 エントランスを一歩出て、半袖のTシャツにハーフパンツという寝間着のままで来たことを後悔した。早朝はさすがに肌寒い。

 しかし引き返そうという気にはなれない。どんよりした灰色の空に向けてビニール傘を開き、雨音の中へ踏み出した。

 先輩は、足跡の残らないアスファルトを辿ってきてくれるだろうか。

 ふらふらと歩きながら、息苦しさの正体を考える。

 二人で一つの部屋に暮らすというのは、なかなか気苦労の絶えないことだ。

 お互いに仕事が忙しいということもあり家の中で顔を合わせるのは朝と夜のほんの少しだけだが、相手の存在を感じる機会は多い。手を洗うための固形石鹸はみるみる小さくなるし、二リットルの水が入ったペットボトルは知らないうちに空になっている。同居人の存在を認識するには十分だ。

 大学生になって卒業するまでの四年間、そして社会に出てからの一年と少し、長いこと一人暮らしをしていた。自分の部屋に別の人物がいるという感覚は久々で、どこか気持ちが悪かった。

 昨晩、玄関に何かが転がり込んできたような音に眠りを妨げられた。転がり込んできた何かというのはもちろんプレーム先輩のことだが、寝室までやって来た彼と目が合い、直前の騒がしい物音とは対照的に柔らかい声で話しかけられた。

「起こしたか?」

「……うん」

「悪い悪い」

 口では謝罪をしながらも、悪気のない様子で目を細める。

「服、濡れてるじゃん」

「あぁ、ちょっとな」

 先輩はどういうわけか全身びしょ濡れだったが、指摘しても小っ恥ずかしそうに笑うだけで、理由など口にしなかった。そして優しく話を逸らす。

「寝てていいぞ」

「言われなくてもそうする」

「おやすみ」

「ん……」

 挨拶を返すのも面倒で、適当に相槌を打って重たい目蓋を閉じた。

 冷静に記憶を振り返ってみても、昨夜の先輩は雨に濡れていた。やはりもう一本の傘は我が家へ戻ってこられなかったのだろう。

 先輩は、傘も持たずに冷たい雨の降る外へ出る気になるだろうか。

 水気を含んだ風が吹きつけて、寒気から身震いをする。

 少し歩いて大通りに出た頃、もう帰りたくなくなっていた。

 普段は職場に向かう途中で歩く、大きな道路沿いの歩道を進む。財布は持ってこなかったからこの先にある駅へたどり着いても電車には乗れないのに、どこへ行くつもりなのか。自分でもわからないが、とにかく遠くへ行きたいという気になっていた。

 休日の朝ということもあってか道路を走る車は少ない中、猛スピードで走る一台が目に入る。水溜まりを押しつぶして水しぶきをあげながらこちらへ向かってくる。

 これはまずい、と思った頃にはもう既に手遅れで、道路に溜まった雨水を盛大に浴びてしまった。つま先から胸元まで、左半身が濡れてしまって溜め息が出る。

 幸いスマホはズボンの右ポケットに入っていて無事だった。傘を左手で持ちながら、ポケットからそれを取り出す。ボタンを押してロック画面を見れば七時十五分という時刻が表示される。いつもなら、そろそろ先輩が起きる時間。しかし今日は日曜日だからそうはいかない。きっとまだ呑気にいびきをかいているはずだ。

 最寄の駅を通り過ぎて、少し大きな公園に入る。この土地の出身ではないから、遊具で遊んだ思い出も、友達と走り回った記憶もこの場所にはない。それどころか引っ越してきてまだ間もないこともあって、ここへ来ること自体が初めてだった。

 濡れたベンチに腰かける。自分の服も濡れているから今更冷たさも感じない。

 先輩も同じくこの土地には縁もゆかりもなかった。生まれ故郷はここから随分遠いと聞いたし、俺と同じく最寄駅とマンションの往復しか経験していないはずだ。

 先輩は、見知らぬ公園まで俺を迎えにきてくれるだろうか。

 だいぶ雨が小降りになってきた。霧状の水滴が舞って身体にまとわりつく。

 このまま雨が止めば、先輩は目覚めた後に外へ出るかもしれない。傘がなくても俺を探しに来てくれるかもしれない。

 そう都合のいいことを想像した途端、降り注ぐ水滴は質量をもって勢いを増した。やはり俺は見つけてもらえない運命らしい。

 かじかむ手で、かろうじてまだ人間の体温を保った二の腕をなぞる。指先は凍るように冷たく、風が吹く度に凍えるように寒い。

 あまりの寒さに背中を丸めた。

 水分を吸ってぬかるんだ土。小さな塊をなす濁った水。水滴が落ちるたびに広がる波紋。

 そんな無機質なものばかりの視界に飽きることもなく、しばらく地面を見つめていた。

「ワードッ……」

 不意に自分の名前を呼ばれたような気がして背筋がぴんと伸びる。それはきっと、息を切らした先輩の声。けれど顔を上げてあたりを見回しても声の主は見当たらない。

 また無機質な地面に視線を落としたその時、どこからかぴちゃぴちゃと水溜まりの跳ねる音が近づいてきて、すぐ右隣で止まった。

「やっと見つけた」

 反射的に目線を持ち上げた先にあった表情は思いの外穏やかだった。先ほど聞こえたように思った声色からもう少し慌てた顔を想像していたが何のことはない、先輩は落ち着いている。

 そして、全くもって予想外のことがもう一つ。

「あれ、傘……?」

 先輩の手には一本の傘が握られている。降り注ぐ雨から先輩を守るその傘は、明らかに見覚えがある。昨日の朝まで玄関に立てかけられていた、先輩のお気に入りの黒い傘だ。

「お前だって傘持ってるだろ。なのにどうしたらそんなに濡れるんだよ」

 ずぶ濡れの俺がおかしくてたまらない様子で、それは日傘か何かか、と先輩は鼻で笑う。

「色々あったんですよ」

 もしかして先輩も昨晩、車に雨水をひっかけられて濡れていたのだろうか。それなら傘には何の問題もなくて、シャワー室かどこかで乾燥させていたのを俺が見逃していただけか。

 そう考えて納得してしまった。

 こんなに冷たい雨の降る早朝、どうして家を出てきたのか。どうしてこの人は追いかけてきたのか。

 この疑問の答えは見つからない。

 状況を理解しようとすればするほど訳がわからず、いたたまれなくなって目を逸らす。

 そんな俺とは正反対に何も苦にしない様子の先輩は会話を続けた。

「寒かっただろ」

 続けて、帰るぞ、と言われることを予想していたが、先輩の口からその言葉が出ることはなかった。代わりに先輩は、傘を持ちながらも着ていたパーカーを器用に脱ぎ、濡れた俺の肩にかけた。その布には人間の体温が残っていて、暖かい。

 さっきまでぐずぐず考えていたことは嘘みたいに忘れて、また先輩の顔を見上げる。口だけは微笑んでいるが、優しい瞳の上にはこれでもかという下がり眉が浮かんでいる。さっきまでの落ち着きは強がりか。そんなに心細そうな顔をされては適わない。

 立ち上がって先輩の正面に立つと、相手は当然のように帰り道の方を向き、揃って一歩を踏み出す。

 雨はまだ止まない。

「散歩なら誘えよ」

「だってあんた起きなかったから」

「起きるまで待ってくれてもいいだろ」

「よく眠れました?」

「あぁ、お陰様でな」

 帰り道、大きな傘を二つ並べて歩く。その距離感が心地よかった。

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