一瞬たりとも
態度
激しい大雨に見舞われる毎日とも、もうそろそろお別れする季節だ。長い雨の日々を越えて訪れる乾季は一年の中でもっとも過ごしやすく、その到来がいよいよ待ち遠しい。
少し先の未来へ期待を抱き、早く季節が変わってほしいと願いながら、それでも今日も日が暮れた頃に激しい雨が降り出した。外で夕食をとっていたプレームとワードは、傘で頭上だけは守りつつ足元はずぶ濡れになりながら、慌ててプレームの寮に帰ってきたところだった。
濡れて重くなったスニーカーを脱ぎ捨てて、引っ掴んだタオルで水の滴る頭部を撫で回す。頭の水分を軽く弾いてから、ワードはプレームに促されるままシャワールームに向かった。家主はあんたなんだから先に使いなよ、と抵抗したいところだったが、聞き流されることはわかっていたのでおとなしく従った。
全身を洗い流してさっぱりしたワードと入れ違いに、プレームがシャワールームに消えていく。ワードは湿った髪をタオルで撫でながら冷蔵庫を開けた。プレームが買い置きしている缶ビールを手に取る。
ふと気が付けば、室内は静かだ。シャワーが床を打つ音と冷房の音以外に、大した物音はない。どうやら先ほどまでの激しい雨は止んだらしい。
カーテンを開けて外を確認する。ベランダの地面は湿っていたが、水浸しになるようなこともない。意外と広さがあるおかげか、窓についた水滴もわずかだった。雨が去った後の空気と匂いに引き寄せられるように、ワードは外に置きっぱなしのサンダルを履いてベランダに出た。
手すりは濡れていてもたれることができない。窓はそれほど濡れていないにしても、着替えたばかりのTシャツの背を汚すのもためらわれる。ぼうっと猫背でベランダの端に立ち尽くしながら、缶ビール片手に雨上がりの空を見上げた。
分厚い雲は少しずつ晴れていくようで、風に乗って移動していく雲の隙間から、妙に大きなまるい月が見えた。いつも見ているそれとは倍ほどに大きさが違うように見える。正円に見える今日は、満月だろうか。白く静かに輝きながら、薄雲を照らしている。
缶ビールを傾ける。肌を撫でる生ぬるい風を感じながら、冷えたそれが喉を通っていく瞬間はたまらない。ごきゅ、ごきゅ、と喉を鳴らしていると、缶の重さはすぐに最初の半分くらいになった。
ビールののどごしに夢中になりながら空を見上げていると、ふと雨の匂いが濃くなる。雲の隙間に見え隠れしていた大きな月も、気が付けばまた雲に隠れて空を暗くし始めた。すん、と鼻を鳴らして雨の匂いを吸い込んだ直後、どこか涼やかな音を立てて、小雨が降り出した。
夕方より、湿度は幾分低い。さあさあと流れ落ちる雨音は、どこか清涼ささえある。心地よく軽い音に、ワードは耳を澄ませた。
「まだ降ってるのか、雨」
しかし澄ませた耳に雨音を遮って入り込んだのは、プレームの声だった。窓を開けて、余っていたもう一足のサンダルに足をつっかける。ワードの隣に並ぶと、ワードが手に持っていた缶ビールを勝手に奪って口をつけた。
「俺がシャワーから上がった時は止んでましたよ。今、また降り始めたんです」
「ふうん」
「きれいな月が見えてました。たぶん満月っぽい」
「へえ」
雨で湿気をまとったワードの二の腕と、風呂上がりでしっとりしたプレームの二の腕がくっつく。プレームは缶を傾けた。
気のない返事をするプレームにワードは少しだけ唇を尖らせた。缶ビール片手に空を見上げている男の横顔は、相変わらず何を考えているのかわからない。多分、何も考えていないような気がするけれど、その実、いろんなことを考えている男だ。それだけはわかっていたが、だからこそ何もわからない。まあいいか、と投げ出してしまうのは、いつものこと。
「先輩は、月の写真って撮らないんですか」
雲に見え隠れしていたとはいえ、大きくて明るくて立派な月だった。今は見えないそれを思い浮かべながら、プレームが見ればきっと「きれいだな」と言いそうな気がして尋ねる。
「ううん、まあ、撮るの難しいしな。新しいレンズとか買わないと無理かも」
「へえ、そういうものなんですね」
確かに、たとえばスマートフォンで月や星空を撮ろうとしても、思うとおりにいった試しはなかったな、と自分の経験を振り返る。プレームと違って人物より景色ばかり撮るワードにとっては、夜空も立派な被写体だったが、あの輝きを写真に収められたことはない。日々進化している文明の利器でさえそうなのだから、簡単なものではないということだろう。
「……雨が止んだら、また見えますかね」
見せてあげたい、と、すこしだけ考えた。一緒に見たい、とも。写真に収めることはできなくても、それでも、めずらしいほど立派な月だったのだ。
「雲が晴れたらな」
プレームの手が、ワードの頭を撫でる。慰めるような、それでいてどこか子ども扱いされているような優しさは、嫌いではなかった。年上に可愛がられた経験の乏しいワードにとって、自分を特別に後輩扱いしてくれるのはプレーム以外にいない。おとなしく撫でられるままにして、その手のひらの優しさを堪能した。そうと気付かれないように、何でもないふりをして空を見上げ続けながら。
「でも、あれだな」
言いながら缶を押し戻されたと思えば、すっかり軽くなっている。念のためひっくり返すようにしながら呷って、最後の一口を飲み干した。
「あれって、どれ」
空になった缶を握り潰す。確認するように隣を見ると、プレームもまたワードを見ていた。
「月がきれいなのは悪くない。お前がそうやって、空を見上げるだろ」
「……見上げるから、なに?」
真意がよくわからず、眉根を寄せながら重ねて問いかける。数秒の間、じっと見つめ合った。
しかしプレームは勝手に一人で笑って、何でもないとでも言うように首を横に振って視線を外した。ワードの肩に腕を回して、それ以上何も言うつもりはないように雨を眺める。
はぐらかされたな、とは思うものの、こういうやりとりもいつものことだ。プレームは、最後まではっきりとは言わない。そのくせ、意味深に見つめてきたり触れてくることばかりだ。きっと、それが彼なりの何らかの愛情表現なのだろう、とワードは思うことにしている。
「俺は、月が見えないほうがいいと思いますよ」
「なんで」
先ほどの反対で、今度はワードがプレームに問われる番になる。しかしワードは仕返しのように、いたずらに笑うばかりで何も答えなかった。
あんまりに月がきれいだったら、先輩は空ばかり見上げてしまうだろうから――なんて、素直に言うのは癪だったのだ。プレームがすべてを語らないのであれば、ワードも語らない。
語らないかわりに、二人はまた数秒の間、じっと見つめ合った。ワードの肩を抱くプレームの手に、わずかに力がこもる。
雨音が、黙り込んだ二人の間に心地よく響く。邪魔することなく、けれどすべてを筒抜けにすることもなく。ただ、その場所にあるだけのものとして、雨は降り続ける。
プレームの手が、肩からワードの細長い首に移動していく。項を撫でるのを合図に、どちらからともなく静かに顔を寄せた。
湿った唇が重なって、湿った舌が絡み合う。徐々に深くなるくちづけに、唾液が混ざり合っていく。二人の間でかすかに響く水音は、雨音よりも強く鮮明に、耳の奥に直接流し込まれるよう。
「……雨が上がるの、待ちますか」
鼻先をくっつけながら、ワードが小さい声で呟く。
「お前は月が見えないほうがいいんだろ。それに、満月なんかいつでも見れるし」
プレームの手が、ワードの頬を撫でる。
「いつでもって。月に一度じゃん」
「細かいことはいいから」
見つめ合って、もう一度軽くくちづける。プレームはどこか急かすように、ワードの腰を抱いてベランダから部屋の中へと連れていく。
そのわずか数分後には雨が上がり雲も晴れて、見事な満月が夜空に浮かんだけれど。ベッドの上でもつれ合う二人には、雨も月も、とうに興味の外だった。